熊野速玉大社

謡蹟めぐり  巻絹1 まきぎぬ

ストーリー

時の帝に夢のお告げがあり、千疋の巻絹を熊野三社に奉納することになります。そこで勅使が立って諸国から巻絹を集めますが、都からの使者は、熊野の音無天神へ参詣し、冬梅の見事さに歌心が湧いて一首詠み、神に手向けます。その後、勅使の前に出ますが、納入期限に遅れてしまったため、縛られてしまいます。
すると、音無天神の霊が憑り移った巫女が現れ、「その男は昨日音無天神に詣でた時、和歌を手向け、神に納受された者です」と言います。そして、手向けの歌の上の句を男に詠ませ、下の句を自分で詠んだのを証拠として縄をとかせます。そして、和歌の徳を説きついで勅使の求めに応じて祝詞をあげ、神楽を舞ううちに神がかりの態となり、あらたかな神の物語をはじめます。やがて神が去ってしまうと、巫女は狂いから覚めます。(「宝生の能」平成10年3月号)

熊野本宮大社  和歌山県本宮町本宮 (平11・2記)

曲中にいう「三熊野」とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を指すが、本曲に登場する「音無天神」、「證誠殿」は熊野本宮大社にある。
熊野本宮大社は三熊野の中心であり、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現としてあまねく世に知られている。
本宮はもと熊野川中州の大斎原(おおゆのはら)にあったが、明治22年の大洪水によって殆んどの社殿が流され、明治24年旧社址の西の台地に移された。これが現在の社殿である。
社殿は左から第一殿と第二殿が相殿となっており、第三殿が中央にあって本曲に謡われる御本殿の證誠殿である。祭神は家津美御子(けつみみこ)大神(素戔嗚尊)であるが、その本地仏名、すなわち本地垂迹によるもとの仏名が阿弥陀如来であることから、「證誠殿は阿弥陀如来」と謡われているわけである。一番右が第四殿の若宮で天照大神をお祀りしてある。

熊野本宮大社 熊野本宮大社  和歌山県本宮町 (平10.3)

境内は平安の昔と変わらぬような静寂を保っている。黒いほどの古杉の森。千木や勝男木の木口を飾る金具が、昼下がりの陽光を反射して、渋いこけら葺きの社殿をいくらか華やいだものにしている。九十九王子に休憩しつつ、遠路をたどってきた中世の旅人たちは、この社の前に立つとき、いったい何を感じたのであろうか。極楽往生という願いひとつに苦難の道を歩んできた人々。その苦行の深ければ深いほど、熊野権現の霊験もまた、あらたかとなったのであろう。

證誠殿 證誠殿  和歌山県本宮町 熊野本宮大社 (平10.3)

本宮前の境内の一隅に「和泉式部祈願塔」がある。「東北」の項、和泉式部のところで記すべきだが、ここで補足させていただく。苔蒸した小型の五輪塔であるが、塔の傍らの案内板には次のように記されている。

「    和泉式部 祈願塔   平安朝の宮廷女人歌人
熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて、奉幣かなはざりければ
   “ 晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて
           月の障りとなるぞかなしき ”
その夜、熊野権現の霊夢ありて
   “ もろともに塵にまじわる神なれば
           月の障りの何かくるしき ”
かくて、身を祓い清めて、多年あこがれの「熊野詣で」を無事すませしと云う。 」

これについては別の伝承もある。
式部が本宮大社北方約4キロの伏拝ふしおがみ(ふしおがみ)まで来た時に月の障りとなり、遠くに見える本宮を伏し拝んで、前述の歌を詠み、引き返そうとしたが、熊野権現の夢の告げがあったのでそのまま参詣したというもので、九十九王子の一つで眺望の素晴らしい伏拝王子の傍らに和泉式部の供養塔が建てられている。

和泉式部祈願塔 和泉式部祈願塔 熊野本宮大社 (平10.3)

旧社地 「大斎原」

「巻絹」前段の舞台である「音無天神」はこの地にあったが、大洪水で被災し、現在は仮に造営された石碑に合祀されている。ここは明治22年まで本宮大社があった場所であるが、現在の本宮大社から700メートルほど離れている。大洪水の後、被害の少なかった上4社は現在の所に遷座されたが、被害の大きかった中4社、下4社ならびに境内摂末社は、この地に石碑二殿を造営し合祀したとのことである。
音無天神は本宮大社の末社で、他の末社とともに東方の石碑に祀られている由である。音無しの梅は昔の一の鳥居付近にあったが、昭和28年の水害で倒れ伐採されたという。

音無天神 音無天神 熊野本宮大社旧社地 (平10.3)

熊野速玉大社 「熊野三山の一」 新宮市 (平11・2記)

「熊野速玉大社」は、熊野本宮大社、熊野那智大社と並び熊野三山のひとつ。神代、神倉山に祀られていた神を現在地に移し、以来神倉山を元宮、ここを新宮と呼んだという。
熊野速玉大神(伊弉諾尊)を主神に12神を祀る。社殿の入口近くには社宝を納めた神宝館があり、その前には高さ20メートル、樹齢1000年以上という「御神木ナギの巨木」がそびえている。このナギは平重盛の手植えといわれ、家内安全・海上安全・縁結びの信仰を集め、この実で作られた人形は家内安全のお守りとして人気がある。

熊野速玉大社 熊野速玉大社 新宮市 (平10.3)

なぎの巨木 御神木ナギの巨木 熊野速玉大社 (平10.3) 重盛手植えと伝える

熊野那智大社 「熊野三山の一」 和歌山県那智勝浦町 (平11・2記)

「那智の滝」は、高さ133メートルの日本一の大滝で、滝の近くにはこの滝をご神体とする「飛滝神社」がある。また、那智の滝の滝壺のすぐ下流にある「文覚荒行の滝」は文覚が修行した場所とのことで、荒行で命をおとしたところを、不動明王の童子2人に助けられたという話も伝えられている。
那智の滝から少し登ったバス停の前が那智大社への登り口である。500段近い急な石段を登ると那智大社と青岸渡寺がある。
「熊野那智大社」は熊野本宮大社、熊野速玉大社とともに熊野三山と呼ばれる。主神は熊野夫須美大神で本地仏は千手観音である。社伝によると大社の根源は飛龍権現で、大滝を神として崇め、その近くにもとの社殿があったが、のちに現在の社地に移ったという。社殿は正面に切妻妻入の本殿5棟と左に八神殿1棟が配されている。社殿の横に宝物殿がある。八社殿と宝物殿の中間にある八咫烏を祀る御県彦(みあがたひこ)神社があるが、八咫烏は、神武天皇が那智の瀧を海上から認め、熊野に上陸した時に道案内をしたという伝説の烏である。
境内にはしばしば熊野に参詣したという「平重盛手植えの楠」が大木となってそびえている。
那智大社に隣接して青岸渡寺がある。仁徳天皇の時代にインドから漂着した僧が、那智の瀧にたどり着き開基したものという。その後那智山は、熊野三山の本地仏を祀る地として神仏習合の一大修験道場となり、浄土を願う多くの人々は、この寺に対して観音菩薩の霊場をめぐる西国三十三所第1番札所としての厚い信仰を寄せた。

熊野那智大社 熊野那智大社 和歌山県那智勝浦町 (平10.3)

那智の滝と飛竜神社 那智の滝と飛龍神社  和歌山県那智勝浦町 (平10.3)

重盛手植えの楠 重盛手植えの楠 熊野那智大社 (平10.3)

(参考) 熊野古道について(南紀熊野体験博パンフレットより)

かって、熊野詣に訪れるために、先人たちが熊野三山(本宮・新宮・那智の熊野大社)をめざして通った古道、それが「熊野古道」です。自然林の続く苔むした古道を歩けば、いたる所で九十九王子社跡をはじめとする風情ある名所に出会えます。

熊野への信仰が最高潮に達したのは、平安から鎌倉の時代、俗化した既成宗教に飽きたらなくなった皇族や貴族たちが厳しい山岳信仰に救いを求め、延喜7年(907)の宇多法皇の御代より上皇たちは競って「熊野御幸」をおこなうようになりました。それ以降、熊野信仰は武士階級、庶民へと広がって、「蟻の熊野詣」と形容されるほど人気を高めました。

その参詣の軸となった道が、京・大阪からの紀伊路(西熊野街道)。特に大辺路・中辺路・小辺路とある巡路のなかで、中辺路がよく利用されました。まず、京都の下鳥羽から舟に乗って淀川を下り、今の大阪天満橋の西方八軒屋に上陸した後、泉州を通って紀伊国に到着。そして海辺を南下し、田辺から先は山間に開かれた中辺路を通って、熊野本宮大社に参拝。本宮からは熊野川を舟で下って新宮の熊野速玉大社・那智山の熊野那智大社を巡り、那智山青岸渡寺の後方にそびえる妙法山にのぼり、大雲取・小雲取の険路を越えて本宮に戻って帰途につく・・・というのが順番でした。
人々はこの道のりを、聖地への憧れとさまざまな祈り、願いを抱きながら、およそ1ケ月をかけてあるいたといいます。

岩代の結び松・千里の浜  和歌山県南部町 (平11・1記)

本曲のツレの詞に「聞くだに遠き千里の浜辺・・」、地謡に「岩代の松の何とか結びし情なや」とある。「千里の浜」「岩代の結び松」はともに和歌山県の御坊市と田辺市の中間、南部町の海岸沿いにある。
「千里の浜」は岩代の結び松に近い美しい海岸である。

千里の浜 千里の浜 和歌山県南部町千里 (平10.3)

「岩代の結び松」には孝徳天皇の御子、有馬皇子の悲しい物語が秘められている。有馬皇子は皇位継承をめぐって叛意ありと疑われ、捕われて牟婁の行宮(白浜町湯崎温泉)に赴く途中、ここで松を結び無事を祈ったというものである。「有馬皇子結松記念碑」と刻まれた碑が建ち、若い松が植えられている。近くには説明板が立っているが、風雪にさらされなかなか読めない。歴史書などを参考に判読したものを掲げてみる。

「 和歌山県指定文化財 指定年月日 昭和三十三年四月一日
           史跡 岩代の結松
斉明天皇五年(六五八)十月、天皇と中大兄皇太子(後の天智天皇)は紀の湯(現在の白浜温泉)に行幸された。孝徳天皇の御子有馬皇子は留守官蘇我赤兄の口車に乗せられて謀反のかどで捕らえられ、天皇のもとに護送された。その途中紀の湯を眼前に望み当地の松の枝を結び自分の命の平安無事を祈って歌を詠まれた。
     有馬皇子、自ら傷(いた)みて松が枝をむすぶ歌二首
  磐代の浜松が枝を引きむすび 真幸(まさき)くあらばまた還(かえ)り見む
  家にあれば笥(け)に盛る飯を旅まくら 旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る (萬葉集 巻二)
有馬皇子は紀の湯における中大兄皇太子の訊問に対し「天と赤兄と知る。吾は全(もは)ら解(わから))ず」と答える。有馬皇子は十一月十一日に藤白坂(和歌山県海南市)において絞殺された。
     昭和三十四年十二月 和歌山県教育委員会・南部町教育委員会   」

有馬皇子が亡くなったのはわずか19歳、「有馬皇子の墓」は海南市の藤白神社近くにあり、藤白神社境内には皇子を祀る「有馬皇子神社」がある。

結び松 岩代の結び松 和歌山県南部町西岩代 (平10.3)

有馬皇子の墓 有馬皇子の墓 和歌山県海南市藤白 (平6.5)

有馬皇子神社 有馬皇子神社 和歌山県海南市 藤白神社 (平6.5)


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