梶原景時の讒言によって兄頼朝の勘気を蒙ってしまった源義経は、大和国吉野山に暫く身を隠していましたが、吉野山の衆徒の心変わりから山を落ち延びることになりました。一人防ぎ矢を仰せつかった佐藤忠信は、山中で偶然に静御前とめぐり会い、二人で吉野山の衆徒を欺いて義経を落ち延びさせようと相談をします。
忠信は都道者(みやこどうしゃ)の姿に化して大講堂での衆徒の詮議の様子を窺い、衆徒の中へ分け入って頼朝・義経の和解の噂や義経の武勇などを語って義経追撃の鉾先を鈍らせます。そこに静が忠信との打合せ通り舞装束で現れ、法楽の舞を舞い、なお義経の忠心や武勇を語ります。衆徒は、義経の武勇を恐れるとともに静の舞のあまりの面白さに時を移し、ついに一人として義経を追う者はなく、義経は無事に落ち延びることができたのでした。(「宝生の能」平成13年 2月号より)
本曲の舞台は勝手神社である。神社の案内板には次のように記されている。
「 文治元年(1185)の暮れ、源義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前は、従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っているところを追手に捕えられて、この社殿の前で雅びた姿で法楽の舞をまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたという話が伝えられています。・・ 」
社前の庭には静が舞ったところという「義経公静旧蹟・舞塚」の石碑が立っている。
また近くには折口信夫先生の歌碑も立っており、「吉野山さくらさく日にもうで来てかなしむ心人しらめやも」と刻まれている。
勝手神社 奈良県吉野町 (平13.7)
舞塚 勝手神社 (平13.7)
折口信夫歌碑 勝手神社 (平13.7)
静御前の古蹟も全国に多数あるようであるが、私の訪ねたところのみ順序不同に紹介のこととする。
母は磯の禅尼であるが、ここが静御前の出身地と伝えられ、その供養塔が建っている。
静御前の供養塔 京都市 (平8.4)
京都の時代祭には静御前も参加する。
時代祭の静御前 京都市 (平8.10)
義経と別れた静御前は捕らえられて鎌倉に送られ、頼朝、政子の命令で鶴岡八幡宮で舞を舞うこととなる。
「賎や賎しずのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」
「吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
と歌い舞ったため頼朝の逆鱗に触れた。静が舞ったのは八幡宮の舞殿と言われるが、本当はその後方の若宮に当時あった舞台とも言われている。
舞殿 鶴岡八幡宮 (平7.12)
若宮 鶴岡八幡宮 (平7.12)
静が義経を慕って奥州へ下る途中、前橋市岩神の観民稲荷のあたりで没した。この近くに静の墓がある。
また、同じ前橋市芳町の養行寺にも静の墓がある。
静の墓 前橋市岩神 観民稲荷近く (平7.3)
静の墓 前橋市芳町 養行寺 (平7.3)
静は義経を慕って乳女と小六を供にしてこの地までたどり着いたが、小六には先立たれ、義経はすでに平泉に立ったと聞き、途方にくれついに乳女とともに池に身を投じたと伝えられる。かつぎを捨てた所が「かつぎ沼」、身を投じた池が「美女池」であるという。静御前堂は里人が静の短い命をあわれみ、その霊を祀ったものと言い、近くには「乳女碑」「小六碑」も建てられ、その経緯が刻まれている。
静御前堂 郡山市 (平12.4)
乳女碑・小六碑 郡山市 (平12.4)
美女池 郡山市 (平12.4)
静は義経を慕って平泉に向かう途中、下総国下辺見において義経の死を知った。途方にくれて思案したという「思案橋」があり、静はこの地の高柳寺(現在光了寺)にとどまり、病没したとも自害したとも伝えられる。光了寺の過去帳には「厳松院殿義静妙源大姉」とあり、寺には後白河法皇より賜ったという静の舞衣をはじめ静の遺品が所蔵されているとのこと。
栗橋駅前には静御前の墓があると聞き訪ねてみたが、丁度工事中で静の墓は見当たらなかったが、義経招魂碑と静の子の供養塔が見られた。
思案橋 茨城県総和町下辺見 (平12.12)
光了寺 古河市中田 (平12.12)
義経招魂碑と静の子の供養塔 栗橋駅前 (平12.12)
津名町は静御前隠棲の地。義経亡き後静御前は名を再性尼と改め、福田寺に移り住み、隠棲の日々を送りここで没した。後の人が静御前の墓と義経の供養塔を建てて弔った。現在はこの墓を中心に静の里公園として整備されている。
福田寺 淡路市津名町 (平12.9)
静御前の墓(右)と義経の供養塔 静の里公園 (平12.9)
静は吉野山で義経と別れた後、母の磯禅尼と共にこの古里に帰って長尾寺で得度したと伝えられ、静御前剃髪塚が今も残っている。
静御前剃髪塚 長尾寺 (平13.3)