玄翁という僧が旅の途中下野の那須野である巨石に目を止めます。するとどこからともなく女が現れ、その石は殺生石といって人畜の命を奪うから近づくな、と声を掛けます。
石の由来を尋ねられると女は、昔鳥羽院に玉藻の前という才色兼備の女官がいたが、実は帝の命を狙う化生の者とわかり、阿倍泰成に追われ那須野に逃げ込み、その執心がこの石に宿って未だに害をなしている、と語ります。そして自分こそがその石塊で、夜には真の姿を現すと言い残して石の中に消えます。
その夜、玄翁が仏事を営むと巨石は二つに割れ狐の姿で石の精魂が現れます。そして世に様々な危害を与えた揚句、遂にこの那須野で三浦の介・上総の介に退治され、その後殺生石となったことを語ります。しかし、貴僧の供養を受けたので以後悪事を働かないと固く誓って精は消え去ります。(「宝生の能」平成13 年10月号より)
那須には何回か訪れたことがあるが、謡蹟と意識して「殺生石」を訪ねたのは、本年5月(教授嘱託会謡曲名所めぐり、下野から羽前への旅に参加)と、昨年7月(兄弟会の帰途妻と)の2回である。
多くの謡友と訪ねるのも、また時間に制約されず一人か二人でゆっくり訪ねるのも、それぞれの趣があって捨て難い。
謡曲とほぼ同様の筋書であるが現地の説明を再録してみよう。
『 殺生石の由来
殺生石は、昭和28年1月12日史跡に指定されました。
この由来の概略は、昔中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から8百年程前の鳥羽天皇の御代に日本に渡来しました。
この妖怪は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須野ケ原へと逃れて来ました。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治してしまいました。
ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが、会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封じましたのでようやく毒気も少なくなったと語り伝えられています。
芭蕉は元禄2年4月18日奥の細道紀行の途中にこの殺生石を訪れ
石の香や 夏草あかく 露あつし
と詠んでいます。 』
殺生石を見学しての帰路は大抵那須温泉神社に廻って参拝するようである。那須与一が扇の的を射ようとした時祈ったという神社である。昨年は朱印帳にご朱印をいただいてきたが、今年は持参した謡本「殺生石」の末尾にご朱印をいただいてきた。
殺生石 栃木県那須町 (平4.7)
殺生石付近 (平5.5)
ここはお稲荷さんと称える作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊とを祭った神社である。国道からかなり入った静かな所で2回とも私ども以外には誰も人影は見当たらなかった。境内には「鏡ケ池」と称する小さな池があって名前のとおり、周囲の木陰がよく水面に映っている。その昔、三浦介義明が九尾の狐を追跡中姿を見失ってしまったが、この池のほとりに立ってあたりを見まわしたところ、池の面近くに延びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池にうつったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩ったと伝えられ、これから鏡ケ池と呼ばれるようになったという。
また、鏡ケ池の傍には「狐塚」の霊を移したという「狐塚祠」がある。
近くにはこの曲に関係ある「狐塚址」「犬追物の馬場」「尾引坂」などがある模様なので探してみたが、残念ながら見つけることが出来なかった。
境内に「源実朝の歌碑」があったのには驚いた。
『 源実朝公の歌
武士の矢並みつくろふ籠手(こて)の上に 霰たばしる那須の篠原 』
というものである。
源頼朝は建久4年(1193)那須遊猟のときこの社に参詣したという伝えがある由であるが、源実朝のは悲劇の歌人を称えたもののようである。彼の歌集「金槐和歌集」に「霰」と題してこの歌が収録されており、これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌で、萬葉調でしかも実朝の歌境がよく表現されているとして歌碑建設となったらしい。
那須与一といい、佐藤継信といい、源氏と関東との結びつきは想像以上に深いものがあったようである。
玉藻前稲荷神社 栃木県黒羽町 (平4.7)
鏡ケ池 玉藻前稲荷神社 (平4.7)
狐塚祠 玉藻稲荷神社 (平5.5)
本曲ワキの玄翁和尚は越後の生まれ、5歳で出家し、能登の総持寺で修行、その後各地を廻り、結城家八代真光公に招かれ安穏寺を禅宗に開宗するなど禅宗の教義を広め、多くの寺院を創建したりして業績を残して71歳で亡くなった。菩提寺の安穏寺が移されたので、和尚の墓だけが民家の間の生垣に囲まれて静かに眠っているが、ここは分骨だけを葬ったものと言われる。
玄翁和尚の墓 結城市結城 (平8.9)
福島県加納村の示現寺は弘法大師が建立した寺であるが、長い間荒れ果てていtののを今から600年前玄翁和尚が再建した。開山堂には玄翁和尚の自作像があると言われ、裏山には玄翁の墓がある。晩年をこの寺でおくり生を終えた。
私が訪ねた時は4月半ばであったが、まだ雪が残っていた。開山堂の案内によると境内の池には6月下旬になると水蓮が咲き、フランスの画家モネの描いた「水蓮」を思わせる風景とのこと。また玄翁は石に腰かけ水に映る自分の顔をスケッチ、自像を刻んだという。
示現寺 福島県加納村 (平12.4)
開山堂 示現寺 (平12.4)
玄翁の墓 示現寺 (平12.4)
示現寺に移る前に玄翁はここに庵を結んでいた。また、その後慶徳寺にいた玄翁の所に殺生石の霊狐が現れたという。寺の由来には次のように記されている。(片仮名を平仮名に、また一部意訳)
「 当寺開山源翁師は能登国総持寺第二祖法嗣也、然るに応安元年此の地に来りて草庵を結ぶ。其の時の領主芦名詮盛猟に出て此の草庵の辺に紫雲の浮くを望み源翁の道骨を知り来り見て其の徳を崇敬し、一宇を建設しここに住ましむ。よって紫雲山慶徳寺と号す。半年余にして雲水の僧二百余集り、其後永和元年(1375)に示現寺を開基し、又応永二年の春来て当寺に宿せしむ。然るに那須野ケ原殺生石の霊現わる。白狐に変じて尾を巻て蹲踞せしが十一面観音菩薩の相を現し、前の山に向って飛去り其の残れる尾は山となる。故に禅師自ら稲荷を安置し山号を巻尾山と改める。 」
また慶徳寺の近くに白狐を祀る慶徳稲荷神社がある。その創建は古く、源義家が奥州征伐のためこの地に来たとき、伏見稲荷を勧請したものという。境内には八幡太郎お手植えの杉もあり、京都伏見稲荷の御分霊を勧請したのを記念して植えられたという。その後乱によってこの社も朽果てていたのだが、この地に庵を結ぶ源翁和尚の夢枕に霊女が立ち、この社を再建させたと伝えられ、この「霊女」実は「九尾の狐の化身」の「白狐」であるという話も伝えられている。
慶徳寺 福島県喜多方市 (平12.4)
慶徳稲荷神社 喜多方市 (平12.4)
鎌倉の海蔵寺は玄翁和尚修行の寺と言われる。
海蔵寺 鎌倉市 (平13.4)
殺生石については日蓮上人が供養して数珠で割ったという説もあり、喰初寺の境内に数珠割の石があり、仏果を得た妖狐も九尾稲荷として祀られる。
喰初寺 栃木県那須町新那須 (平12.7)