金色堂

謡蹟めぐり  錦戸1 にしきど

ストーリー

義経は頼朝と不和になり、奥州へ下り、藤原秀衡の下に身をよせていた。
秀衡の没後、秀衡の子錦戸太郎国衡は、義経が遠ざけて、対面しないのを不満に思っているところに、頼朝から味方せよとの教書をうけ、泰平と同心して頼朝方になる決心をし、弟の泉三郎忠衡を誘いに来た。三郎は亡父の遺言もあり、変心は一家の恥辱と答えて同心せず、錦戸は席をけって帰って行った。
三郎は妻を呼び出し、兄弟の変心を語り、今母からの手紙によれば、錦戸泰衡がここに攻めてくるとのことであるが、御身は何方へも落ちよというと、妻は夫の最期をすてて落ちることが出来ようかといって、その場で自害して夫を励ました。錦戸が押し寄せてくると、泉は覚悟の上であるから太刀を振って奮戦したが、今はこれまでと、持仏堂の床の上に走り上って西方浄土を祈念し、腹かき切って自害した。(宝生流旅の友より)

泉城址  岩手県平泉町平河内 (平10・1記)

本曲の舞台、泉三郎忠衡の居館址(泉城址)は北上川支流の衣川をさかのぼった平河内(へかない)というところにある。一面の田んぼの中に土を高く盛った広大な台地があり、往事城のあったことを偲ばせる。この泉城址に現在住んでいる石屋の葛西文治氏が昭和62年頃、泉三郎忠衡の供養塔を自費で建てられたとのことである。
忠衡の出生については、父の秀衡が熊野参詣の途次、中辺路町の滝尻王子まで来たとき妻が男児を出産した。しかし夫妻はこの児を打ち捨てて一路向かうこととし、途中の野中で妻が持っていた桜の杖を地に挿し、もし児が無事生育すればこの桜も根付くであろう、と占った。帰途果して桜は根付いており、今も野中の秀衡桜として繁茂しているとのこと。滝尻まで帰ると男児が狼に育てられており、これを記念して神社を建立したという。この男児が泉三郎であるとのこと。まだ訪ねていないが、本年は熊野詣でをしたいと思っており、その際是非訪ねてみようと思っている。

泉城址 泉城址(泉三郎忠衡の居館址) (平6.5)

泉三郎墓 泉三郎忠衡の供養塔 (平6.5)

源義経の最期と藤原一門の滅亡 (平10・1記)

概説

「安宅」に語られるような経過を経て、義経一行は奥州に下り藤原秀衡をたよった。頼朝は法皇に要請して詰問の使者を送らせ、様子をさぐらせたが、秀衡はこれを黙殺し、義経を庇護して鎌倉の頼朝に対抗する準備を進めていた。
しかし残念ながら秀衡は病魔に犯され、ついに平泉の館で息をひきとり、中尊寺金色堂の須弥壇の下に横たわる身となった。
臨終にのぞんだ秀衡は、国衡・泰衡ら腹ちがいの兄弟たちの前途を案じて、たがいに異心をもたない旨の起請文を書かせ、義経からも起請文をとり、子供たちには義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝を討つように、こまごまと遺言を残したという。

              ┌ 国衡(長男)(錦戸太郎)異母兄
              ├ 泰衡(次男)嫡子となる
              ├ 忠衡(三男)
藤原経清―清衡―基衡―秀衡 ┼(泉冠者・泉三郎)泰衡に殺害される
              ├ 高衡(本吉冠者)
              ├ 通衡(和泉七郎)
              └ 頼衡 泰衡に殺害される

しかし、遺児たちの不和反目はますますはげしくなり、本曲にもあるように三男泉三郎忠衡は泰衡に討たれ、末弟の頼衡も殺害されてしまった。義経の館も急襲を受け義経も自害した。ときに文治5年、義経は31歳、その首は酒につけられて鎌倉に運ばれた。
泰衡は頼朝の策謀を読み取れず、義経さえ殺せば北方王国は安泰で、恩賞にもあずかれると考えたようだ。
頼朝にとっては、秀衡、義経なきあとの奥州勢など、もはやなんらおそれるところではない。頼朝は泰衡が今日まで義経をかくまっていたこと自体が、重大な犯罪行為であると主張して、朝廷の宣下を待たず大軍を動員して奥州征伐を敢行した。国衡は宮城県で撃破され、泰衡は北方へ遁走したが、家臣に裏切られてあえない最期を遂げた。
清衡以来4代、奥州にその富強を誇った奥州藤原氏王国は鎌倉の新政権の前にあまりにもあっけなく崩壊してしまった。

以下私の訪ねた関係謡蹟を紹介する。

金色堂、弁慶の墓、弁慶堂、岩手県平泉町 中尊寺

藤原清衡が建立し、基衡、秀衡と三代に亘って拡張された中尊寺は、一時堂塔伽藍四十を越えたが、戦火で大部分焼失し、昔の建物で現在残っているのは藤原三代の廟所金色堂と経堂だけである。
中尊寺の登り口の広場に弁慶松があり、その根元に弁慶の墓がある。また、参道の途中には弁慶堂があり、中には武装した義経と弁慶の像が飾ってある。

金色堂 金色堂 中尊寺 (平6.5)

弁慶墓 弁慶の墓 中尊寺 (平6.5)

弁慶堂 弁慶堂 中尊寺 (平6.5)

歴史館「夢館」    岩手県平泉町

中尊寺からほど近いところに「夢館」があり、奥州藤原氏の百年の歴史の有名な場面をロウ人形を中心に再現され、居ながらにして当時の歴史を体感できる。平成5年から6年にかけてNHKの大河ドラマ「炎立つ」でも放映された場面も多く、興味深く参観できた。主な場面と概要を記してみる。

1 前九年の役
源頼義を鎮守府将軍に任命、安部一族(頼時)の討伐にあたらせた。

2 経清の出陣
藤原経清は頼義を裏切り、頼時側につく。

3 経清斬首
豪族清原氏が政府軍に加わったため安部一族は滅亡、経清は斬首。

4 母再嫁
経清の子の清衡は、母が清原武貞に再嫁することになり生きのびる。

5 清衡少年時代
武貞の後添えになった清衡の母は家衡を生む。兄弟関係複雑となる。

6 後三年の役
清原一族は内紛を起こし、後三年の役に向かう。

7 清衡闇討ち
所領配分に不満の家衡は清衡の住む豊田館を奇襲するが清衡は逃れる。

8 後三年の役勝利
清衡は義家の援軍を得て、家衡を討ち勝者となる。

9 祝宴
清衡は義家のため祝宴を催す。しかし義家は陸奥守を解任される。

10 平泉・都市建設
清衡は豊田館から平泉に移りここに理想郷を建設しようとする。
清衡・基衡・秀衡の三代は無量光寺、中尊寺、毛越寺等を建立した。

18 義経・平泉入り
金売り吉次に伴われ義経が秀衡を頼って平泉に下ってきた。

20 義経・出陣
頼朝の挙兵を知り、義経も出陣する。

21 壇ノ浦の合戦
義経はこの戦いで平家を滅亡させる。

24 安宅の関
頼朝と不和になり、秀衡を頼り再び平泉へ落ちて行く。

25 秀衡病没
秀衡の死により平泉と鎌倉の緊張はますます高まった。

27 弁慶の立往生
泰衡は義経擁護派の国衡、忠衡を討ち、義経の住む高館を奇襲する
義経は妻子とともに自害、弁慶も身体中に矢を受けながらも仁王立ちになり息絶える。

28 奥州藤原氏の滅亡
泰衡は義経をかくまったという罪で鎌倉に攻められ、家臣河田次郎に討たれ、奥州藤原氏は滅亡する。

毛越寺    岩手県平泉町

毛越寺は藤原二代基衡公が七堂伽藍を建立、さらに三代秀衡公が社堂坊舎を造営、その規模は堂塔40、僧坊500を数え、わが国無二の霊地と称された。現在一山18坊を残すのみだが、古来の法灯祭式を今日まで護り伝え、平安時代の貴重な伽藍遺構と浄土庭園とを有し、国より特別史跡、特別名勝と二重の指定を受けている。
毛越寺復元図によると、広大な境内には、かって金堂円隆寺をはじめ、嘉祥寺、講堂、常行堂、経楼、鐘楼、南大門などの堂舎が建ち並び、その前庭に大泉が池を中心とする浄土庭園が配されている。
現存する本堂は一山の根本道場で、平成元年に建立され、本尊薬師如来、脇士として日光月光両菩薩を安置する。
境内には南大門跡、大金堂円隆寺跡などの標識が立ちわずかに往事を偲ばせてくれる。かってこの池に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべ、管弦の楽を奏したという大泉が池は今のその名残をとどめており、龍頭鷁首を模した船が浮かべられている。庭園には遺水(やりみず)と称される水路が流れ、毎年5月第4日曜日には、平安衣装を身につけた歌人たちが水辺に座し、遺水に浮かべた盃が流れつく間に歌を詠む「曲水の宴」が行われる由である。

毛越寺復元 毛越寺復元図 毛越寺発行のパンフレットより

毛越寺本堂 毛越寺本堂 平泉町 (平6.5)

南大門跡 南大門跡 毛越寺 (平6.5)

毛越寺庭園 毛越寺庭園 (平6.5)

毛越寺池 大泉が池 毛越寺 (平6.5)

無量光寺跡   岩手県平泉町

無量光寺は泰衡が建立した寺で、京都の宇治の平等院を模したもので、規模も同じものであったといわれる。復元想像図も立てられていたが、この地方にこのような建物が存在したとは驚きである。

無量光寺復元 無量光寺復元想像図 平泉町 (平6.5)

無量光寺址 無量光寺跡 平泉町 (平6.5)

柳の御所跡、加羅御所跡   岩手県平泉町

柳の御所は初代清衡が豊田館(江刺市)から平泉に進出し居館を構えたところで、藤原三代の居館「平泉館」の跡との説もある。やがて三代秀衡が鎮守府に、やがて陸奥守に任ぜられ、名実ともに陸奥の最高権力者として中央からも認められ、平泉は経済のみならず、この地方の実質的な政治の中心として成長した。
その結果これまでの居館は政庁としての性格も帯びることとなり、秀衡の日常の居館「加羅御所」がこの西南に建設されたものと推定される。頼朝奥州征討の際惜しくも灰燼に帰した。

柳御所跡 柳の御所跡 平泉町 (平6.5)

から御所跡 伽羅御所跡 平泉町 (平6.5)

えさし藤原の郷 岩手県江刺市

平成5年7月から9カ月にわたり放送されたNHK大河ドラマ「炎立つ」のロケ地となった江刺市の歴史公園「えさし藤原の郷」には、奥州藤原氏の建造物や町並みが恒久建築として再現され、保存公開されている。
「柳之御所(平泉政庁)」「経清館(旧豊田館)」「清衡館(豊田館)」「加羅御所」「金色堂」「無量光院」など本曲関連のものも沢山ある。

藤原の郷 えさし藤原の郷 江刺市 (平6.5)

藤原の里から御所 えさし藤原の郷の伽羅御所 (平6.5)

高館・義経堂、義経主従供養塔、北上川     岩手県平泉町

高館は北上川に臨む丘陵で、判官館とも呼ばれ、その高館からの眺望は平泉第一といわれる。高館はかって義経の居館があった所といわれ、文治5年(1189)閏4月30日に秀衡公の子泰衡に襲われ妻子とともに自害したのもこの地といわれる。丘の頂きには仙台藩主伊達綱村公が義経公を偲んで立てた義経堂があり、中には義経公の木像が安置されている。高館から眺めると、眼下に北上川が流れ、遠く束稲山の連山が望まれる。西から衣川が北上川に合流しているが、衣川の流域はかって前九年・後三年の役の戦いが繰り広げられたところであり、弁慶立往生の故事でも知られている。
ここには昭和61年、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶800年の御遠忌を期して建立された源義経主従供養塔があり、俳聖芭蕉が「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」と詠んだのもこの場所といわれ、芭蕉の句碑もある。

高舘風景 高舘からの眺望 かって義経の居館があった 平泉町 (平6.5)

高舘義経堂 高舘義経堂 (平6.5)

義経堂 義経堂 (平6.5)

義経主従供養塔 義経主従供養塔 (平6.5)

芭蕉句碑高舘 芭蕉句碑 (平6.5)

義経首洗いの井戸、義経首塚、白旗神社 藤沢市本町

義経の首級は防腐のため酒に浸して鎌倉に送られ、腰越で和田義盛と梶原景時が実検した。首は打ち捨てられたが、その首を背負った亀が川を上ってきたので村人が首を洗って清め、埋葬したという伝説がある。
義経首洗いの井戸と義経の首塚が藤沢市にあり、近くの白旗神社は義経を祀り、境内には義経松、弁慶松、弁慶力石、義経藤、弁慶藤と義経主従にちなんだものが沢山ある。

義経首洗い井戸 義経首洗いの井戸 藤沢市 (平6.12)

白旗弁慶力石 弁慶力石 白旗神社 藤沢市(平6.12)

白旗神社 白旗神社 藤沢市 (平6.12)

義経首塚 義経首塚 (平6.12)

白旗弁慶松 弁慶松 白旗神社 (平6.12)

馬取沼  宮城県大河原町福田

こうして義経が死ぬと鎌倉では早速奥州藤原氏討伐に乗り出した。頼朝自ら大軍を率いて平泉に進攻、この戦火で平泉の藤原三代の栄華の跡もことごとく灰燼に帰した。秀衡の長男国衡は南方に逃れたが、宮城県大河原町福田の泥沼の馬取沼に乗馬がはまり討たれてしまった。沼の跡が特定できなかったので付近の田園風景を撮ってきた。

馬取沼 馬取沼付近 宮城県大河原町 (平6.12)

錦神社   秋田県大館市

他方次男の泰衡は北方に敗走、家臣の河田次郎に討たれてしまった。秋田県大館市に錦神社がある。藤原氏四代泰衡の墓が「にしき樣」と呼ばれ、当神社となったようである。由緒には次のように記されている。
「      錦  神  社
奥州平泉(岩手県)の藤原氏四代泰衡は、源頼朝に追われ、エゾ地に逃れようとして、にえの柵(現在二井田)に家臣河田次郎を頼って立ち寄ったところを、その裏切りにあって殺された(文治5年、1189)。地元の人々はそのことを次のように語り伝えている。
河田次郎は、「泰衡をかくまって罪になるより、泰衡を討って頼朝の恩賞を、」と考え、主人殺しの罪にならずに泰衡を討つ計画を練った。旧九月三日の夜、次郎は多くの家来を使って、頼朝の大軍が攻め入ったように見せかけ、泰衡が観念して切腹するように仕向けた。この計画は成功し、次郎は泰衡の首をはねた。
その後、首のない泰衡の死体は、里人によって錦の直垂(ひたたれ)に大事に包まれて埋葬されているという。この墓が「にしき樣」と呼ばれて当神社となり、毎年旧九月三日にお祭が催されている。
ここから南西約3キロメートルの五輪台(比内町西館)には、泰衡のあとを慕い、長い旅を続けてきた奥方と、忠僕にまつわる話が伝わり、その遺跡は西木戸神社として祭られている。  」

同じ場所には、「藤原氏四代泰衡歿後八百周年の碑」が立っており、その隣には江戸時代の紀行家菅江真澄が、頼みにしていた旧臣に裏切られ、露のように消えてしまった泰衡の歴史的事件を偲んで、哀悼をこめて詠んだという歌碑が立っている。
    たのみつる その木のもとも 吹風の
             あらきにつゆの 身やけたれけむ
                            菅 江 真 澄

錦神社1 錦神社 秋田県大館市 (平4.10)

錦神社2 藤原氏四代泰衡没後八百年の碑 (平4.10)

西木戸神社    秋田県比内町

この錦神社の近くに、泰衡の夫人をまつった西木戸神社があると知り訪ね参詣した。民家の間に挟まれた祠(ほこら)といった感じの神社である。
「  西木戸神社の由来
西木戸神社は、奥州藤原家四代伊達次郎泰衡の夫人を祭神として、八百年間地元の奉仕が続けられている。文治5年(1189)夫人は平泉を逃れて贄の柵を目指す泰衡のあとを追い、比内町八木橋のこの地ですでに四日前泰衡が譜代の郎従河田次郎の変心によって討たれたと聞かされ、従者由兵衛に後事を託して生害を遂げた。里人はその心根をあわれんで祠を建立し五輪の塔をおさめて霊魂を慰めたのが神社の始まりである。
源頼朝の武家政治は、泰衡の死により全国統一を完成した事実は、日本の歴史に特筆されるべきだが、その後夫人の殉死を学者、文人、墨客、俳優ら多数の著名人が訪れ、今もなお悲涙をそそいでいる。
神社の名称はこの一帯が泰衡の異母兄西木戸国衡の采邑地だったからで、五輪台の里名は五輪の塔の安置によるという。五輪台の社殿と境内は、里人と有志の寄進に成り八百年の長い歳月、休むことなく続いた情のこまやかさをしのばせている。
    比内町教育委員会     」

境内には 「泰衡夫人を祀るとありければ  初子」 として句碑が建てられていた。
         里人の 情あたたかし 露の塚

西木戸神社 西木戸神社 秋田県比内町 (平4.10)

西木戸句碑 句碑 西木戸神社 (平4.10)


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