常磐井

謡蹟めぐり  船弁慶1 ふなべんけい 常磐御前

ストーリー

兄頼朝と不和になり追討軍を差し向けられる悲運に陥った義経は都落ちを決意して弁慶以下十余人で人目をしのび摂津の国大物(だいもつ)の浦に着きます。弁慶はかねて談合してあった船頭に舟をたのみますが、一行の中の静御前を都に帰すようはからい、静は泣く泣く同行を諦めます。門出に近づき弁慶は白拍子の名手である静に舞を乞います。やがて義経一行の舟は静を残して出て行きます。
沖合はるかに進んだころ、黒雲が出たかと思うと忽ち一天暗く波は大きく荒立ちます。すると西海に滅びた平家の一類と覚しき人影が波間に浮び、中にもおどろの髪をふり乱し甲冑を帯した平知盛の幽霊が潮を蹴立てて近よります。義経は少しも騒がず応戦し弁慶も調伏すれば、さしもの幽霊も恐れて遠ざかるところを舟子どもはえいやえいやと漕ぎ急ぎ危く虎口を脱するのでした。(「宝生の能」平成9年1月号)

大物主神社 尼崎市大物町 (平19・6記)

本曲の舞台は尼崎大物の浦で、現在の大物主神社のすぐ前あたりといわれる。神社境内には「義経弁慶隠家跡」の碑が立っており、近くの辰巳八幡神社には「静なごりの橋」も残されている。

大物主神社 大物主神社 尼崎市 (平11.9)

義経弁慶隠れ家跡 義経弁慶隠家跡碑 大物主神社 (平11.9)

静名残の橋 静なごりの橋碑 (平11.9)

義経・弁慶関係の謡蹟 (平19・6記)

本曲に直接関係のある謡蹟は少ないが、義経・弁慶に関する謡蹟は極めて多い。
この両名が登場する曲として、今までに「安宅」「烏帽子折」「熊坂」「鞍馬天狗」「正尊」「摂待」「錦戸」「橋弁慶」の8曲を取り上げ、次のような謡蹟を紹介してきた。

安宅

安宅関址の碑、弁慶富樫問答の碑、智・仁・勇の碑、義経像、関の宮、安宅住吉神社、弁慶勧進帳の像、海津の浦、義経隠れ岩、白米塚、気比神宮、 尼御前岬、弁慶富樫の像(小松駅前)、勝楽寺、金剣宮、義経腰掛石、白山比盗_社、鳴和の滝、富樫館跡の碑、布市神社、力石、義経一夜泊の宮桜、 義経雨晴岩、弁慶・義経を打擲する像、如意渡址碑、弁慶投げ石、念珠の関跡、出羽三山神社、最上川、亀割子安観音、弁慶笈掛けの桜、小国川の瀬見温泉、弁慶橋、義経像、聖武天皇・皇后の御陵、俊乗堂

烏帽子折

鏡の宿、鏡神社、義経烏帽子掛けの松、義経元服之池碑、義経宿泊の館跡碑、首途八幡宮、長者が原廃寺跡、吉次兄弟の墓、吉次の墓、判官塚、 (安倍)館跡、住吉神社(山県)、唐松観音、一首坂、姫神山、金沢の柵址、景政功名塚、金沢八幡神社、西沼、立馬郊、雁の乱れの壁画、春日山神社、甘縄神社、兜神社(兜岩)、八幡太郎義家の像、「吹く風を」の歌碑、 鞍掛けの松、弓弭の清水、飯野八幡宮、大崎八幡宮、源氏山(頼朝像)

熊坂

赤坂港跡の碑、赤坂の宿、熊坂物見の松、熊坂物見の松跡碑、熊坂大仏、熊坂屋敷

鞍馬天狗

鞍馬寺山門、東光坊跡、義経供養塔、稚児桜の碑、由岐神社、鞍馬寺本 堂前の石段、鞍馬寺本堂、雲珠桜(鞍馬寺本堂脇)、義経公息つぎの水、義 経公背比べ石、僧正ケ谷、義経堂、魔王殿、鞍馬寺西門

正尊

左女牛井跡(堀川館址)、金王八幡宮、金王桜、土佐坊昌俊邸跡、正尊社

摂待

医王寺、継信・忠信の墓(医王寺)、若桜・楓の像、乙和椿、佐氏泉公園、常信庵、田村神社(白石市)、甲冑堂、楓・初音の像、継信・忠信の墓(栃木県黒羽)、継信・忠信の墓(善光寺)、継信の墓(屋島)、菊王丸の墓、洲崎寺、射落畠、継信の墓(香川県牟礼)、佐藤継信顕彰の碑

錦戸

泉城址(泉三郎忠衡の居館址)、泉三郎忠衡の供養塔、金色堂、弁慶の墓、弁慶堂、毛越寺復元図、毛越寺本堂、南大門跡、毛越寺庭園、大泉が 池、無量光寺、無量光寺復元想像図、柳の御所跡、加羅御所跡、えさし藤原の郷、えさし藤原の郷の加羅御所、高館からの眺望、高館義経堂、義経堂、 義経主従供養塔、芭蕉句碑、義経首洗いの井戸、義経首塚、白旗神社、弁慶松(白旗神社)、弁慶力石(白旗神社)、馬取沼付近、錦神社、藤原四代泰 衡没後八百年の碑、西木戸神社、句碑(西木戸神社) 雲際寺、弁慶屋敷跡、豊田館跡、多聞寺、玉崎神社、浄土ケ浜、長者山、小田八幡宮、櫛引八 幡宮、三戸八幡神社、貴船神社、円明寺、義経寺、厩石、義経海浜公園、仏ケ浦

橋弁慶

五条大橋、牛若丸・弁慶の像、五条天神、橋弁慶山(祇園祭)

これら個別の曲では取り上げにくい共通的な謡蹟、その後新たに訪ねた謡蹟もかなりの数になったので、この場所を借りて私の訪ねた所を中心に紹介のこととする。

常磐御前・義経誕生

「鞍馬天狗」に「常磐腹には三男・・」と謡われるとおり、牛若丸、後の義経は母常磐御前の三男である。常磐は義朝の寵愛を受け、今若、乙若、牛若の三人の子を産んだ。京都市北区には紫竹牛若町と牛若の名のついた町や牛若通りの名が今でも残っており、このあたりに義朝の別館があったという。常磐は平治の乱の前後、ここに住んでいたので常磐御前に関する古跡が多い。
紫野東栗栖町の「常徳寺」には常磐地蔵が安置されているが、常磐御前が牛若丸の安産を祈願して寄進したものという。また上野町の「光念寺」の腹帯地蔵も同じく牛若丸の安産を祈ったものという。ともにお参りは出来たが写真撮影は出来なかった。
牛若の生誕地は今でも牛若町の名で残り、畑の中のこんもりとした灌木の前に「牛若丸誕生井」と書かれた石碑が建っており、少し離れて「牛若胞衣塚」と記された塚が築かれ、一本の松が大きく育っている。この石碑から船岡東通りをへだてた南東に行った民家の前に、もう一つの井戸跡がある由。石碑には源義経産湯之井とあり、常磐の住居址と記され、牛若生誕地の本家を争っている由である。

常徳寺 常徳寺 京都市北区紫野栗栖町 (平6.4)

光念寺 光念寺 京都市北区上野町 (平6.4)

牛若誕生井 牛若丸誕生井の碑 京都市北区紫野牛若町 (平6.4)

牛若胞衣塚 牛若胞衣塚 京都市北区紫野牛若町 (平6.4)

平治の乱で義朝が敗走したため、常磐は23歳で厳しい平家方に追われる身となった。清水寺山内のある塔頭の僧にかくまわれたともいい、また、雲林院近く紫野下築山町の民家の間にも「常磐の井戸」があり、ここにも隠れ住んだとも伝えられる。
京都では隠れ通せぬと、親しい人を頼って常磐は今若(7歳)、乙若(5歳)を連れ、牛若(当歳)を懐に抱いて雪道を大和に向かった。京都の「時代祭」にはこの「常磐親子都落ちの一行」も参加している。祭では衣裳も華やか、秋日和で楽しそうに見えるが、これが吹雪の中、懐に乳呑児を抱えた、追われる身ということになると、あまりに哀れで目頭が熱くなる思いがする。

常磐井 常磐の井戸 京都市下築山町 (平6.4)

時代祭常磐御前 京都時代祭の常磐御前 京都市 (平8.10)

常磐は大和国宇陀郡岸岡に住む親しい人を頼って行ったのだが、断られてしまった。しかたなく常磐はその国の大東というところにこっそり隠れていたが、六波羅では常磐の母を人質として捕えたという噂を耳にし、常磐は母を助けるために自首する。ところが清盛は自首した常磐の美貌に惹かれ、常磐も三児の助命を条件に清盛の妾となる。
常磐はその後清盛の胤を宿したまま一条大蔵卿藤原長成に再嫁し数人の子を儲けているというが、その晩年は明らかでない。奥州へ下った牛若の後を追い、山中宿で盗賊に遭って殺害されたとか、また義経の死後鎌倉から京都へ向う途中、岐阜県不破の関あたりで夜盗に襲われ殺害されたとかさまざまの伝承があるようである。
常磐の墓も埼玉県飯能の山頂近く、京都の嵯峨の常磐町源光寺等にある由だが、私の訪ねたのは群馬県前橋市の極楽寺のものと、岐阜県関ヶ原町にあるもののみである。

極楽寺 極楽寺 前橋市亀里 (平7.3)

常磐墓極楽寺 常磐の墓 極楽寺 (平7.3)

常磐墓関ヶ原 常磐御前の墓 岐阜県関ヶ原町今須 (平19.5)

鞍馬山、奥州下り

牛若は生後間もなく母に抱かれて流浪の末捕えられた後、鞍馬山に預けられるが出家を拒否し、遮那王と称して武道の修行をする。「鞍馬天狗」参照。
鞍馬山で育った牛若は15歳の時、鞍馬山から三条の吉次に伴われて奥州平泉に向う。その途中元服したり、熊坂の長範に襲われたりする。「烏帽子折」「熊坂」参照。


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