百万古柳

謡蹟めぐり  百万 ひゃくまん

ストーリー

和州三吉野の男が奈良西大寺辺りで拾った幼な子を連れて嵯峨清涼寺に参詣します。大勢で念仏を合唱する大念仏の場に狂女が現れ自らその音頭を取り車を引いて祈ります。
古烏帽子をかぶり笹を手に狂うその女が自分の母であると幼な子は気付き、連れの男に狂女の身の上を尋ねさせます。すると狂女は奈良の都の者で、夫と死別し唯一人残った子には生き別れ、心乱れてその子の行方を尋ね諸国を巡る身、浅ましい姿を人目にさらすのも我が子逢いたさのためと語り、神仏に願いを込めた舞を舞います。それは悲しい身の上と共に清涼寺の由来をも語るものでした。
群衆の中に我が子を探し求める百万の様を見て哀れに思った男が幼な子を引き合わせると百万は正気に戻り、これも仏法の力によるものと感謝し、母子は連れ立って奈良の都へと帰って行きます。(「宝生の能」平成9年3月号より)

西大寺  奈良市西大寺芝町   (平2・7記)

昭和56年6月、奈良の三笠温泉ホテルでKDDの末広会が開催された。その帰途、村本、秋元、太田、宮嶋、三上の皆さんと付近の謡蹟めぐりをしたが、その折に奈良の西大寺も訪ねた。
謡本によれば<これに渡り候雅き人は、南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候>またクセに<西の大寺の柳蔭みどり子の行くへ白露の>とあり、この寺の柳蔭で百万の子が拾われて、京都の清涼寺に連れて行かれたという筋書きである。
その時の写真を見ると、「百萬古柳の由来」と書かれた掲示板や、漢詩で書かれた石碑などがあり、それに加えて今よりかなり若かりし頃の私どもの姿があった。

西大寺1 西大寺 奈良市 (昭56.6)

百万古柳 百万古柳 西大寺 (平8.9)

西大寺2 西大寺 奈良市 (平8.9)

清涼寺  京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町  (平2・7記)

本曲の舞台は、京都嵯峨の清涼寺で、ここで母子が再会する。
昭和49年6月、京都松山閣でKDDの末広会が開催されたが、その帰途、村本、屋敷田、小嶋の皆さんと嵯峨野を散策した。
当時の写真を見ると、祇王寺、二尊院、野宮神社、落柿舎、小督局の墓などに行ったことははっきりしているが、清涼寺となるとそれらしい寺も写っているが、果してそうなのか、また参詣したのかも定かではない。

清涼寺 清涼寺 京都市右京区 (平10.3)

嵯峨野は何回行ってもよい所と思う。謡蹟の宝庫みたいな所だ。今度京都に行った時はまた、この辺りを散策し、清涼寺にも間違いなく参詣して、百萬母子再会の場面を偲んでくることとしよう。

(補足 平成10・9記)

本年3月、今度は間違いなく清涼寺を参詣してきた。釈迦堂の名で親しまれている清涼寺は嵯峨野でも有数の古刹である。広い境内の一隅に「狂言堂」がある。ここが世に名高い念仏狂言の行われる所である。百万はこのあたりでわが子に巡り会ったのであろうか。
この寺には謡曲関係でも、この「狂言堂」のほかに、このあたりは源融が営んだ山荘、棲霞荘の跡とのことで、「源融の墓」と伝える宝篋印塔や、和泉式部が好んだといわれ、その墓の周囲に植えられたと伝えられる「軒端の梅」などがある。

清涼寺狂言堂 清涼寺 狂言堂  京都市右京区 (平10.3)

西照寺・百万の墓  奈良市今辻子町   (平10・9記)

シテ百万の墓は奈良駅に近い尼寺西照寺の境内にある。明治の頃まではこのあたりは百萬ケ辻子町と呼ばれ、百万親子が住んでいたところという。この石塔もはじめは百万屋敷跡にあったが、いつの頃からかこの寺の境内に安置されるようになったという。

西照寺 西照寺 奈良市今辻子町 (平6.4)

百万の墓 百万の墓 西照寺 (平6.4)

百万の子「十万」 (平10・9記)

百万の子は、後に十万円覚上人という高僧となり、聖武天皇の勅願によって唐僧鑑真の開いた奈良の名刹「唐招提寺」(奈良市五条町)で修行し、後に「壬生寺」(京都市中京区壬生梛ノ宮町)に移り、その中興の祖となったという。

唐招提寺 唐招提寺 奈良市五条町 (昭56.6)

壬生寺 壬生寺 京都市中京区 (平7.9)


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