平家方の猛将悪七兵衛景清は、平家が滅びてから後西方に忍んでいましたが、頼朝を討つ宿願を果したく、頼朝が、この度奈良の大仏供養に参詣する由を聞いて自身も奈良へ潜入することにします。そして若草山に隠れ住む母のもとに別離の挨拶に立ち寄ります。母は景清の本心を聞いて嘆き悲しみますが、景清は千万無量の思いを胸に今生の別れを告げて立ち去ります。
場所は奈良東大寺、征夷大将軍源頼朝は多勢の家来を引きつれて参詣に来ます。一方景清も宮人の姿に身をやつして供養の場に紛れ入ります。しかし厳重な警戒の中、装束の脇から鎧の金物が光ったのを怪しまれ、警固の者に取り囲まれてしまいます。景清は逃げては武士の恥と、名乗りをあげて名刀あざ丸を抜いて斬り込みさんざん悩ました末、ひとまず思いを晴らして姿をくらまします。(「宝生の能」平成10年8・9月号より)
本曲後段の舞台は東大寺大仏殿である。重衡の南都攻めでこの大仏殿も灰燼に帰したが、15年後の建久6年(1195)再建され頼朝も列席した。本曲はその時の物語である。その後また焼失し、現在の大仏殿は宝永5年(1708)の建造という。当初の規模より縮小されている由だが、それでも木造古建築としては世界最大とのこと。
堂内に安置されている現在の大仏は高さ約15メートル、重さ約452トンで、頭部、右手などは後代の鋳造であるが、腹部、両足、台座の蓮弁などには造立当時のものが残されているという。
また、東大寺境内には、景清が神官をよそおって隠れていたという俗称景清門(転害門)や、「安宅」の勧進帳の一節「俊乗坊重源、諸国を勧進す」とあるように、東大寺再興につくした俊乗上人の座像を安置するという俊乗堂、さらには行基の木像を安置する行基堂がある。
東大寺大仏殿 奈良市 (平13.7)
東大寺大仏 (平13.7)
景清門(転害門) 東大寺 (平13.7)
俊乗堂 東大寺 (平13.7)
行基堂 東大寺 (平13.7)
奈良の新薬師寺には景清地蔵があるといので訪ねてみたが、修理中で拝観出来なかった。景清が頼朝を討って平家の恨みを果たそうとするのに先立って、新薬師寺の近くの勝願院町に庵を結んで住んでおられたお母さんにいとまごいに来た時、この地蔵尊に、自分の弓を持たせておいたと伝えられる。
この景清地蔵に関連して、寺の中に平成4年3月30日付の新聞が貼ってあるのが目についた。
昭和59年、この像が修理される時、胎内から新しい裸身の像が発見され「世紀の発見」と注目されたという記事である。
出て来た古文書によって、建立当時は裸形の像として作られたのではないかと言うことになった。今は、昔のままの頭部と、木彫りの法衣を模作の体部にはめ込んだ景清地蔵を本堂におまつりして、一体は像造当時の姿のままに、頭部を新しく模作したものをつけて、「お玉地蔵」という尊称を奉って、西南にある香薬師堂の本尊の脇に安置されているという。一体のお地蔵様が見事に二体に生まれ変わられた訳である。
新薬師寺 奈良市 (平6.4)
お玉地蔵発見に関する新聞記事 平成4.3.30 日経新聞