鉢木の絵

謡蹟めぐり  鉢木1 はちのき

ストーリー

北条時頼は剃髪して諸国を巡歴していましたが、上野の国佐野に着いた大雪の夜、とある民家に宿を請います。しかしこの家は貧しく食べる物も十分でないので一度は断られますが、親切な夫婦に呼び戻され一夜の宿を借りることにします。
夫婦は粟の飯を勧め、あまりの寒さに焚くものもなくて秘蔵の鉢植えの梅、松、桜を伐って火にたき精一杯の歓待をします。主は、自分は一族の横領にあってこのように落ちぶれている佐野源左衛門常世であるが、もし鎌倉に事が起きたら一番に駆け付けて命を捨てて戦う覚悟だと話します。翌朝、旅僧はなごりを惜しんで家を去ります。
後日鎌倉から諸国の武士に召集がかかると、常世もやせ馬に乗って駆け付けます。例の旅僧は前執権の最明寺入道時頼で、常世の言葉に偽りがなかったことを賞し、鉢の木のもてなしに報いるためだと言って、梅田、松枝、桜井の三荘を常世に与えます。(「宝生の能」平成12年10月号より)

夏期講座「鉢木の背景」 (平10・4記)

教授嘱託会の夏期講座では謡の講義のほかに、毎年片桐登先生により特定の曲目が取り上げられ、その曲目の背景についての講義がある。昨年は「鉢木」が取り上げられ、この曲の背景について膨大な資料により当時の時代背景、常世の心情、武士道、時頼の人間性など詳細な説明があった。
その全貌を伝えるのは困難であるが、私にとって印象深かった点を列挙してみる。

  • 落魄してはいてもなお鉢の木を慈しむ、風雅の心を持ち続ける人物
  • 落ちぶれていても失われないシテの忠誠心
  • 鎌倉参集の武者には極めて大きな負担であったに相違ないこと
  • ある意味では時代の相を示すか。一所懸命の地。訴訟の苦労。長期滞在。費用の負担。実力者の巡行による救済
  • 常世のような律儀者の存在も少数になっていた
  • 作者は不明だが、時頼と常世は理想の為政者と武者で存在しないからこそ、この作品が出来たのではないか
  • 川柳の数々
      宿やめがなどとどくづく諸軍勢    最明寺気がちがったか呼びあつめ
      あゝらおもしろからず雪の供     のふのふと呼て鉢の木を売付ける
      あわめしの工面が出来て呼び返し   源左衛門あすの朝のをしてやられ
      えん日に又買ますと常世焚き     源左衛門よくも鎧を食わぬなり
      長刀と馬を残して大当たり      人ならハとふに出て行く佐野の馬

佐野源左衛門邸跡(常世神社)、定家神社
           高崎市上佐野  (平10・4記)

この地は常世が領地を横領された後、住みついた佐野源左衛門の邸跡といわれ、常世を祀る常世神社が建てられており、立派な「佐野源左衛門常世遺跡」の碑が立っている。
また傍らには屋根と扉のついた案内板のようなものがあり、自由に開閉できるようになっている。扉を開くと「鉢木の絵」が見られる。常世が鉈をふるって秘蔵の鉢の木を切っている場面である。
神社から少し離れたところに定家神社があるが、藤原定家の歌、
    駒とめて袖うち払ふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ
が曲中に引用されているので、ここに神社を建てたものといわれる。

常世神社 常世神社 (平5.7)

常世遺跡碑 佐野源左衛門常世遺跡の碑(平5.7)

鉢木の絵 鉢木の絵 常世神社 (平7.3)

定家神社 定家神社 (平7.3)

佐野源左衛門邸跡、常世の墓他
         栃木県葛生町鉢木町  (平10・4記)

高崎からかなり離れるが、栃木県、すなわち下野(しもつけ)の佐野が本曲の舞台であるとする説があり古蹟もある。佐野市北方の葛生町に鉢木町という地名も残っており、この町にあるる願成寺の墓地には「佐野源左衛門常世の墓」がある。
ここから近い正雲寺公民館のあたりが、常世の邸跡と言い、「佐野源左衛門常世邸跡」の標識があり、建物の一室に佐野源左衛門常世と母の位牌および守り本尊と伝えられる薬師如来が安置されている。また案内板の一部には佐野之雪図と記された、雪景色の中に常世、時頼、鉢の木を配した絵が見られる。
公民館の西方には、常世の守り神と言われる矢越天神が鎮座している。

葛生願成寺 願成寺 栃木県葛生町 (平5.7)

常世墓葛生 常世の墓 (平5.7)

公民館跡 正雲寺公民館 (平5.7)

源左館跡碑 佐野源左衛門常世館跡碑 (平5.7)

佐野の雪の図 佐野之雪図 (平5.7)

常世位牌 常世と母の位牌 (平5.7)

矢越天神 矢越天神 (平5.7)

最明寺  長野県佐久市  (平10・4記)

時頼が滞留したといわれる寺である。「我此程は信濃の国に候ひしが」とあるのはこの寺で、「余りに雪深くなりて候程に」ここを出発して鎌倉へ向かったのかも知れない。当時はこのあたりから関東へ出るには中山道を通るのが普通だったのであろうか。時頼は佐久市から北上して、浅間山、碓井川、板鼻を通って佐野の渡りに着いたようである。車で越えても大変な碓井峠を、雪の降る中を歩いて越えたのだからさぞ大変だったことであろう。
私は最明寺を参詣してから、美しく咲き誇るコスモスの花を眺めながら、コスモス街道を車で群馬県に出た。雪で難渋した時頼に申し訳ない気持ちを抱きながら。

最明寺長野 最明寺 長野県佐久市 (平7.9)

浅間山   長野県軽井沢町 (平10・5記)

「信濃なる浅間の岳に立つ煙」と謡われる浅間山である。この曲には雪景色の浅間がふさわしいが、冬の旅行は私にはなかなか億劫である。浅間山付近も何回か通ったのだが、写真になるような姿を見せてくれない。この時は素晴らしい秋晴れの下、昔ながらの稔りの秋の風景が展開されていた。

浅間山 浅間山 長野県軽井沢町 (平7.11)

時頼が与えた三箇の庄       (平10・5記)

時頼は常世に梅、桜、松に因んだ三箇の庄を与えたが、「上野に松枝」というのは群馬県の松井田と言われるが、ここにはその跡となるものはないとのこと。「越中に桜井」と「加賀に梅田」はその跡が残されている。

桜井の碑  富山県黒部市三日市

公民館の庭に大きな桜井の碑が建てられている。大きな碑の表には「佐野源左衛門常世之遺跡」と刻まれており、裏面には細かい字で恐らく鉢の木の物語が記されているのであろうが、私には読めそうもない。

桜井碑1 桜井の碑 (平9.6)

梅田の里碑  菅原神社   金沢市梅田町 

金沢市には梅田町という名の町が残っており、金沢市から富山県方面に向かって国道159号線を北上すると、「鉢木」の名のついた食堂だったかレストランがある。そこを右折すると菅原神社があり、その境内に「梅田の里」の碑が建っている。傍らには金沢市観光協会が、その由来を記した碑も建てられている。

梅田の里碑 菅原神社と梅田の里碑 (平9.5)


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