長福寺観音堂

謡蹟めぐり  石橋 しゃっきょう

ストーリー

大江定基は出家して寂昭法師と号し、唐に渡って仏寺や霊地を巡礼した後、清涼山の橋のほとりにやって来ます。現世と浄土をつなぐという有名な石の橋で、これがその橋か人に尋ねようと思った法師が誰か来るのを待っていると、一人の童子が現れます。
童子はこの橋がそうであると教えますが、法師が渡ろうとするとそれを止めます。そして、この石橋が幅一尺もない上千古の苔に覆われて滑りやすく、谷の深さを見れば足がすくみ気を失うほどで、並の修行者では渡れぬ橋だと説きます。そして、向かいは文殊菩薩の浄土であるから、ここで待てばやがて菩薩如来が現れるだろうと言って立ち去ります。  法師が待っていると、菩薩の使者である獅子が石橋の上に出現し、目も眩むばかりに咲き乱れた牡丹の花に戯れつつ雄壮な獅子舞を舞い、千秋万歳を祝います。(「宝生の能」平成13年5月号より)

大江定基と力寿姫 (平8・4記)

曲中に「是は大江の定基といはれし寂昭法師にて候」とあるように、ワキは大江定基である。大江定基は三河守のとき赤坂の長者の娘力寿姫と恋仲になった。しかし姫が亡くなったため世の無常を感じて出家し、寂昭となり宋に渡った。  この力寿姫や大江定基に関する謡蹟が愛知県にあるので訪ねてみた。

長福寺、力寿姫の墓碑、長福寺観音堂   愛知県音羽町赤坂

伝承では定基が来任した頃、赤坂の長者宮路弥太郎長富に一女力寿姫がいた。姫は容姿教養比類なく、また定基もみめうるわしき青年であった。いつしか二人は恋仲となり、上宿(豊川市)の新居で寵愛を受けていたが、定基の任期が満ちて、近く帰京する噂を聞いた力寿姫は別離を悲しみ舌を噛みきって死んでしまった。
定基は深く悲しんで七日間亡骸とともにしたが、刻々と変り行く姿に無常を感じ、京の町に帰らず比叡山に恵心僧都を訪ねて出家し寂昭となった。
力寿の遺骸は父の邸址長福寺の裏山に葬られ、力寿姫の墓碑がある。父は力寿を弔って邸址に長富寺を建立したが、後に長福寺と改名された。定基は恵心に頼んで観音を刻んでもらい寺に納めた。本堂の裏にある観音堂がそれである。

長福寺 長福寺 愛知県音羽町赤坂 (平7.2)

力寿姫墓碑 力寿姫の墓碑 長福寺 (平7.2)

長福寺観音堂 長福寺観音堂 長福寺 (平7.2)

三明寺、西明寺 豊川市

この寺は文武天皇の大宝2年(702)の草創の古刹で、豊川弁財天として知られ妙音天女を祀っているが、この妙音天女は大江定基が力寿姫をモデルに自ら彫刻して、この寺の本尊としてお祀りしたと言われている。
力寿姫を失い、世の無常を感じて仏門に入り、京都如意輪寺の寂心を師として名を寂昭と改めた。その後、比叡山に登り源信僧都の教えを受けた後、この地大宝山の山麓に草庵を結び六光寺とし、天台宗弘道のかたわら力寿の冥福を祈ったのが西明寺のはじまりと言われる。

三明寺 三明寺 豊川市馬場町 (平7.2)

西明寺 西明寺 豊川市八幡町 (平7.2)


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