琴聴橋

謡蹟めぐり  小督 こごう

ストーリー

高倉天皇の寵愛を受けていた小督局は、中宮の父平清盛を怖れてひそかに身を隠します。
その小督の失踪を嘆く帝のもとへ小督は嵯峨野にいるとの噂が伝わり、源仲国に小督を訪ねるようにと勅命が下ります。折しも八月十五夜、小督は琴の上手だから今夜は琴を弾くに違いない、と仲国は琴の音を頼りに馬を走らせます。
「牡鹿鳴く山里」と歌にも詠まれた秋の嵯峨野は澄みわたり、その中を片折戸の家を手がかりに小督を探しあぐねていた仲国は、やがて法輪寺辺で聞き覚えのある琴の音を耳にします。それはまさしく小督が帝を思い奏でる「相夫恋」の曲でした。
ようやく小督に対面がかなうと仲国は帝のお心を伝え、小督から帝への返事を受け取ります。そして名残り惜しまれる酒宴で舞を舞い、都へと帰ります。(「宝生の能」平成13年10月号より)

小督塚、法輪寺、渡月橋、大堰川、琴聴橋 京都市 (平8・1記)

高倉天皇は小督の局が嵯峨野のあたりにいるときき、仲国を召してその行方を尋ねさせた。仲国は嵯峨野の片折戸した家としか分からないが、名月の夜だから必ず琴を弾くだろうと考え、帝から賜った馬に跨り嵯峨野へ急ぐのである。

仲国は嵯峨野あたりを駒で駆けめぐったが琴を弾く人はなかった。月にあこがれて出かけたのかと思い、川を越えて法輪寺までくると琴の音が聞こえてきた。小督塚のある所からこの法輪寺までは川を隔てて約400メートルほどある。当時は今ほど騒音もなかったから聞こえたのであろう。仲国は音のするほうへ引き返す。
法輪寺の裏庭には小督の経塚があり、小督の墓とも伝えられるとのことで、寺に尋ねてみたが非公開とのことで参詣できなかった。

渡月橋北詰から上流に折れたあたり、車折神社の前に琴聴橋がある。仲国はここまできて、駒を止めて琴の音に聴き入ったという。「峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、楽は何ぞと聞きたれば、夫を思いて恋ふる名の想夫恋なるぞ嬉しき」と曲中に謡われている。正しく小督の局の弾く調べと確認して仲国はその隠れ家に向かう。
琴聴橋を上流に向かい200メートルばかり行って右の折れると小督の塚がある。ここが小督の隠栖した跡といわれ、一説には小督の墓とも伝えられる。小督は名月の夜ここで「想夫恋」の曲を琴で弾いていたのであろう。

法輪寺 法輪寺 京都市西京区嵐 山虚空像山町 (平7.9) 仲国にこのあたりで琴の音を聞いた

琴聴橋 琴聴橋 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 (平7.9) 今も琴聴橋の名が残っているのが嬉しい

小督塚 小督塚 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 (昭59.3) 小督の隠栖した跡といわれ、また小督の墓とも伝える

清閑寺・小督の墓、高倉天皇陵 京都市    (平8・1記)

この曲に述べられる経緯があって、小督は一旦宮中に戻るがまた追放される。その後の消息は尼となって隠栖した後歿するというだけで明らかでないが、伝説はいろいろに語られる。清水寺に近い清閑寺あたりもその一つである。
清水寺から音羽の滝を経て子安の塔のあたりまで歩くと、「歌の中山 清閑寺」と書かれた門柱が見えてくる。小道を10分ほど歩き坂をのぼれば清閑寺である。小督の局は高倉天皇の歿後にここに庵を結んだといわれる。以前は立派な伽藍をもった寺と伝えるが、応仁の乱ですっかり衰微し現在はこの本堂だけである。
このあたり「ふとん着て寝たる姿や東山」で知られる東山の一部になっているようで、五条通から山科、大津に至る国道1号線の東山トンネルや、東海道本線や新幹線の東山トンネルが下を通っている。トンネルのない昔、東国から京都に上る時の重要な通路になっていたようで、坂を上りここまでくると京都の街が扇状に拡がって見え、その要(かなめ)の部分に今でも要石がある。この石に上って京都の街へカメラを向けてみた。
ひっそりとした境内には、小督の局の墓と伝える立派な宝篋印塔がある。
清閑寺と山続きに高倉天皇の陵がある。玉垣の中にはこれも小督の局の墓と伝えられる宝篋印塔がある由だが確認は無理であった。

清閑寺 清閑寺 京都市東山区清閑寺山ノ内町 (平7.9) 小督は高倉天皇の没後ここに庵を結んだという

要石からの眺望 要石からの眺望 清閑寺境内 (平7.9) ここを要に京都の街が扇状に広がる

小督の墓 小督の墓 清閑寺境内 (平7.9) 小督の墓と伝える立派な宝篋印塔がある

高倉天皇陵 高倉天皇陵 清閑寺隣接 (平7.9) 清閑寺と山続きに高倉天皇の陵がある

白鳥山成道寺、小督の墓 九州田川市      (平8・1記)

京都から遠く離れた九州の地田川市の白鳥山成道寺にも立派な小督の局の墓がある。
どのような経緯で小督が遠い九州までの道を辿ることになるのか、この寺で入手した資料により要点を紹介することとする。

保元の乱の軍功で平清盛が「太宰の大弐」という役職を得た時、かなりの平家一門が太宰府に入り、小督の局も平家一門であるから太宰府に知人縁故があっても不思議ではない。小督は縁故先の太宰府の観世音寺の僧を頼って、海路を西へ下り柳が浦(門司の大里と砂津の中間)に上がり、石原町、金辺峠を越えて香春についている。
ここにちょうど居合わせた人物が成道寺の住職の寂光である。寂光は自分の前を過ぎ去る3人の尼僧を見て思わず腰を浮かした。それは先日太宰府の観世音寺の友人の住職が「小督が九州に下ってくるかも知れぬ」と漏らした秘めことを思い出したからである。
3人は数日来の激しい雨で増水した伊田川(糸飛川)を危ない足どりで渡り始めた。寂光が川原に駆け下り「お待ちなさい」と声をかけた時にはすでに遅く若い尼僧は激流に呑まれていた。どうにか助けあげ成道寺へ伴い手厚く看護し、侍女の話からやはり小督の局であることを知ったが、小督は馴れぬ旅の疲れから病いの床につき25歳の若さでこの世を去ってしまった。
小督の局の薄倖をあわれんだ時の軍司(地方官)が石工に命じて石塔を建てたのが現在に伝わる小督の局の墓といわれる。

成道寺 白鳥山成道寺 九州田川市白鳥町 (平3.10) ここまで逃れてきた小督はここで病没したという

小督の墓成通寺 小督の墓 白鳥山成通寺 (平3.10) 境内には立派な墓がある


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.