善通寺のすぐ近くに西行が3年間住んでいたところという玉泉院があり、庭には「西行上人山居之地久之松」の碑があり、そばに松が植えられている。今のは何代目かわからないが、当時遠くから見ると久の字の形をしていたといわれ、西行がこの下に庵を結び七日七夜籠った所で、別れに際ししみじみと別れを惜しんだという。
七仏寺の前に西行の歌碑があるというのでさがしたが、なかなか見つからず、曼荼羅寺で年輩の僧に聞いてようやく見つけることが出来た。七仏寺といっても寺跡といった感じで、野中に立った石仏の傍らに西行の歌碑があった。西行がここに庵を結んでいたが、ある夜芋を盗掘したのを見つかり、
月見よと 芋の子供の 寝入りしを
起しに来たが 何か苦しき
と詠んで許してもらったという。
曼荼羅寺には弘法大師手植えの松「不老松」があり、「高野物狂」の項に掲げたが、この松は西行手植えの松であるとも言われる。また境内には西行の歌碑とも見られる「笠掛桜」と題する碑があるので撮してきた。その下に次の歌が記されている。
四国のかたへぐしてまかりける同行の都へかへりけるに 西行上人
帰りゆく人のこゝろをおもふにも はなれがたきはみやこなりけり
かの同行の人かたみとて此桜に笠をかけ置けるを見て
笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな
久の松 善通寺市南 玉泉院 (平6.9)
西行歌碑 善通寺市吉原町 七仏寺前 (平6.9)
笠掛桜の碑 善通寺市吉原 曼荼羅寺境内 (平6.9)
白峯寺に隣接して崇徳院の白峯御陵がある。崇徳院は西行とほぼ同年、西行はかねてから院の知遇を受けていた。崇徳院は保元の乱に破れて讃岐へ配流となり、8年後京の政権に憤懣の念を抱きつつ崩御された。院の崩御から4年後、彼はようやくこの御陵に詣でることが出来た。
西行が懸命に祈っていると廟が震動して御製があった。
松山や浪に流れてこし船の
やがて空しくなりにけるかな
西行は涙を流して御返歌に
よしや君むかしの玉のゆかとても
かゝらんのちはなにゝかはせん
御納受されたのか、また鳴動したとのことである。
この西行の返歌が歌碑として、西行の像と並んで立っている。
西行の像も赤い着物を着せられたり、頭巾をかぶせられたり、賽銭箱のようなものを前に置かれたのでは心中いかばかりと気の毒になった。
崇徳院白峯御陵 香川県坂出市青海町 白峯寺 (平13.3)
西行歌碑 白峯寺 (平13.3)
西行石像 白峯寺 (平13.3)
西行が東国に下った折に詠んだ
心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮
の有名な歌の舞台がここである。
東海道線大磯駅から歩いても5、6分、国道1号線を越えた所がもう鴫立庵入口である。入口を下ると大きな「旧跡鴫立澤」の碑があり、鴫立沢の小川が昔の面影を留めている。国道1号線の下から水が流れ出ているので奇異な感じがするが、海もすぐ近くにあり、このような大きな道のなかった往時、このあたりから眺める夕暮の景色はさぞ素晴らしかったことと思う。
鴫立庵は、寛文初期に小田原の外郎の子孫といわれる崇雪が、石仏の五智如来をこの地は運んで草庵を結び、始めて鴫立沢の標石を立てたといわれる。その後、元禄8年(1695)5月、紀行家と知られ俳諧師としても有名だった大淀三千風が入庵し、円位堂・法虎堂・秋暮亭など今日に残っている堂宇の大部分を建立した。
現在庵内には歴代庵主の句碑・墓碑が25基、そのほか句碑、歌碑等を合わせると全部で82基の石造物がある由で、これらが欝蒼と繁った木々に囲まれ、茅葺きの草庵の間に立ち並ぶ樣は壮観である。
旧跡鴫立澤の碑 神奈川県大磯町茶屋町 (平8.2)
西行に関するものとして気のついたものを掲げてみる。
円位堂(西行堂)
三千風の建てた元禄そのままの建造物で、堂は厚い茅葺きの屋根で覆われ、堂内には等身大の西行法師の座像があるとのことであるが、拝観はできなかった。鴫立庵の年中行事、大磯町主催の西行祭は、毎年3月末の日曜日にこの堂の前で行われる由である。
西行上人の歌碑
佐々木信綱筆の冒頭に掲げた西行の歌碑が西行堂のすぐ前にある。昭和26年に建てられたもので、裏面には次のような建立の経緯が記されている。
「 大淀三千風夙く西行上人を追慕してこの鴫立庵を興し世々俳蹟を生めり、今茲三千風が上人の五百年忌を修してより二百六十年なり、ここに同じく上人を敬ひ、竹柏園大人の揮毫を請ひ得て、そのきさらきの望月の日一門の俳衆知友と共に之を建つ 」
円位堂(西行堂) 鴫立庵 (平8.2)
西行上人の歌碑 鴫立庵 (平8.2)
西行銀猫碑
碑の文章を読みこなすことは出来なかったが、西行と書いてあったので撮してきた。ここで求めてきた解説書によると、造立は西行五百年忌の元禄13年、この文の大意は次のとおりである。
「建久の頃頼朝より銀猫を贈られた西行は、帰り道子供に与えて去った故事は吾妻鏡に記載されているが、三千風は後に幾末代堂守らが西行のごとき無欲無我の慈悲をもち、いかなる者に対しても変らぬ心でのぞむよういましめに建てた石碑である」
また裏面には
遺言に いふへきことも なかりけり
そのなきものや かたみなるらん 心月道周居士
と刻まれている。
西行像
西行堂内に安置されている西行の座像は拝観できなかったが、鴫立庵受付のガラスケースの中にこの像があったので、許可を得て撮させてもらった。
以上のほか「西行法師笠懸けるの松」の碑もある由だが、残念ながら見逃してしまった。
謡曲関係では、曾我兄弟の十郎の相思の人、虎御前十九歳の姿を写した木像を安置する「法虎堂」がある。
また、謡曲には関係ないが、私どもの年代には懐かしい「天国に結ぶ恋」で知られる坂田山で心中した調所五郎と湯山八重子の供養塔「大磯の比翼塚」がある。
西行銀猫碑 鴫立庵 (平8.2)
西行像 鴫立庵 (平8.2)