曽我禅師房

謡蹟めぐり  禅師曽我 ぜんじそが

ストーリー

曽我の十郎五郎に仕えていた鬼王と団三郎の兄弟は、主君が父の敵の工藤祐経を討って討死した後、形見の品々を持って曽我兄弟の母を訪ねます。母は兄弟の死を嘆き、末の弟国上の禅師の身を案じて、団三郎に文を持たせて越後の国上の寺へ遣わします。
一方、伊藤祐宗は国上の禅師の養父でしたが、頼朝から国上の禅師を捕えよとの命を受けたので国上の寺へ攻め寄せて来ました。
何事も知らずに百座の護摩を修していた国上の禅師は、ちょうど同じ時に渡された母上の手紙で、祐宗は自分を捕まえに来たのだと知ります。それでは尋常に討たれて養父祐宗に功名を成させてやろうと、墨染の僧衣の下に鎧を着て打って出て、しばらく戦った後、今は最後と心を決め、護摩の壇上から剣をのんで落ちて自害しようとしますが、生け捕りにされ、鎌倉へ引き立てて行かれます。(「宝生の能」平成11年12月号より)

国上寺 新潟県分水町  (平16・2記)

舞台は新潟県分水町の国上寺である。良寛和尚の修行の寺として知られ、五合庵が保存されており、また謡曲「大江山」の酒呑童子が若い頃修行した寺としても知られる。(「大江山」参照。国上寺の写真も掲載)
禅師曾我に関する古蹟は見当たらず、境内には「曾我禅司房」と題する案内板が掲げられていた。それには次のように記されている。
「         曾我禅司房
建久四年(1193)五月、将軍源頼朝が富士の裾野で巻狩りの折り曾我十郎、五郎の兄弟は苦節十八年の末、父河津三郎祐泰の仇工藤祐経を討ち果した。
十郎はその場で討死、五郎は捕われて後に斬られた。この兄弟にもう一人の弟禅司房がおり、縁あって十六歳のころから国上寺に上り出家、仏道修行に励んでいたが、討たれた祐経の妻子が禅司房を召し出すよう頼朝に訴えた。
このため禅司房は鎌倉へ連れられたが、斬罪になるとの風聞により七月二日、相模の国(神奈川県)甘縄の地で読経念仏の末自ら命を絶ったといわれる。時に十八歳であった。 」

曽我禅師房 「曾我禅司房」の案内板  国上寺 (平3.10)

五合庵 国上寺        (平16・2記)

境内には良寛ゆかりの五合庵があるので、その写真や案内と、良寛の残した歌を紹介する。
五合庵は良寛が岡山県倉敷市の円通寺できびしい修行を終え、さらに各地の名僧をたずねて研鑽を重ねた後、この地に移り約二十年間住んだ所である。五合庵の名は、国上寺の阿弥陀堂(本堂)の再建に身命をかけて、その功をなしとげた万元上人にこの草庵と毎日米五合を給したことから名付けたと言われる。現在の草庵は大正三年の再建という。

 かたみとて何かのこさむ春は花 夏ほととぎす秋はもみぢば  良寛

 いきしにのさかひはなれてすむみにも さらぬわかれのあるぞかなしき 貞心尼

 御かへし
 裏をみせおもてをみせて散るもみぢ  良寛

五合庵 五合庵 国上寺   (平3.10)


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