西行庵京都

謡蹟めぐり  西行桜1 さいぎょうざくら 京都府

ストーリー

京都西山に住む西行法師の庵の桜が、満開で、毎年春になると大勢の人々が桜をめでに訪れます。西行法師はすげなく断ることも出来ず庭に通しますが、閑居を妨げられるので、これを厭わしく思い「花見んと群れつゝ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける」と和歌を詠みます。
その夜の夢に、木陰から白髪の老人が現れて、西行法師の詠んだ歌を口ずさむので不審に思っていると、老人は猶もこの歌の心を尋ねたい、桜のとがとは承服できないと不満を述べます。桜は非常無心の草木であるから、浮世のとがは無いのだと言います。そして自分は実は桜の精だと名乗り、歌仙西行に逢えたことを喜び、名所の桜を讃えて舞を舞い、春の夜を楽しみますが、やがて夜が明けると、老桜の精は別れを告げて消え失せ、西行の夢も覚めます。あたりは一面に敷きつさめたように桜花が散り、人影も消えています。(「宝生の能」平成13年5月号より)

西行法師について   (平4・4記)

木本誠二著「謡曲ゆかりの古蹟大成」に詳しい説明があるが、その要点を抜粋させていただく。

西行法師自身をワキとして登場させた曲「西行桜」「雨月」、西行の詠歌が中心となっている曲「江口」「遊行柳」

西行は藤原房前の後裔、田原藤太秀郷九代の孫で、元永元年(1118)に生まれ、文治六年すなわち建久元年(1190)歿したとされるが異説もある。祖父以来の徳大寺の家臣で、鳥羽院に出仕、北面の武士佐藤義清(憲清)として特に鳥羽上皇に寵を受け、将来を嘱望された。
ところが23歳のとき上皇の慰留をも辞退して出家した。元来強烈な性格であり、出家の原因は色々に推測されているが、公武の争いによる政界の暗雲、相次ぐ知人の死、自身の恋愛問題、等々複雑に絡み合った心境によるものらしい。
従五位左兵衛尉の官位も妻子も捨てて保延6年(1140)京都嵯峨野の奥、勝持寺(花の寺)に入って得度する。円位と号し暫くここに庵を結び修行する。
26歳の頃第1回の奥州の旅に出る。主に歌枕を訪ね、能因法師の旅を心に描いたもので、芦野では「遊行柳」に述べる一首を詠じ、白河の関から武隈の里、笠島、名取川を経て平泉に藤原秀衡を訪ね、都に帰った。そして高野山に入ったのが28歳と言われ、以後西国への旅を挟んで30年間高野山を本拠とした。
仁安3年(1168)51歳で中国から四国に旅立つ。岡山県の児島を経て今の玉野市の日比渋川から乗船、坂出市近郊に上陸した。若き日に親しく仕え、保元の乱で讃岐に流され崩御された崇徳上皇の跡を弔い、兼ねて弘法大師の古蹟を訪ねるのが目的であった。
63歳頃伊勢に移住した。伊勢から鳥羽に向かう山間の道路沿いに西行谷があり、ここに隠栖しているとき昔の妻が訪ねて来たが、逢うこともなく身代わりに木像を与え、妻も出家してこの木像を安置し、神照寺を建立したという。この寺も廃寺となっていまは何の跡もない。
熊野、大峰、吉野には度々行脚したらしく、厳しい修行に泣いたこともあった。吉野山の奥の千本に西行庵があり、近くに渇を癒した苔の清水がある。「とくとくと落つる岩間の苔清水、汲み干すまでもなき棲家かな」の歌が添えてある。
68歳で、重衡のため焼かれた東大寺再建の勧進を俊乗坊重源上人に頼まれ、第2回の陸奥の旅に立った。途中鎌倉で頼朝を訪ね、平泉の秀衡に再会したのが文治2年である。
翌年春京都に帰り、真葛が原の双林寺に住んだ。境内に西行の墓が康頼と頓阿の墓に挟まれて並んでいる。寺の向い側に西行庵があり、中には西行木像が安置され、庵の前に今は若木の西行桜が植え継がれている。ここで歿したとも伝えている。
文治5年(1189)春、西行は河内の弘川寺に移った。今の大阪府河南町弘川で、かなり交通不便な山間である。ここでも歌集を手がけたが、翌建久元年77歳で歿した。
    願わくは 花の下にて 春死なん 
       その如月の 望月の頃
と詠んだとおり、奇しくも2月16日その日であった。弘川寺の西行堂の中には西行木像が安置され、これは壮年の時の像である。裏山に西行の墓所がある。
西行は公卿の時代から武家へ権力の移行した保元の乱、平家が政権を掌握した平治の乱以後、平家滅亡後の頼朝幕府まで社会動乱のさ中を生きたが、これを逃避して浮世の外に閑居したのではなく、社会との接触を保ちつつ温かい人間愛を求め、しかも自然をこの上なく愛して多くの歌に托したもので、その歌を絶讃する人も多い。

勝持寺 京都市西京区  (平8・2記)

本曲の舞台は京都市西京区大原野春日町にある俗に花の寺と呼ばれる勝持寺とのことである。境内には桜の木が沢山植えられており花の季節はさぞ見事なことと思われる。その中でもいわゆる西行桜と言われる桜の木のそばには「西行桜」と書かれた立て札があり、さらに謡曲史跡保存会作成の「花の寺と西行桜」と題した案内板が立てられている。この説明によると、西行は出家の折、鏡石と姿見池に自分の姿を映しながら髪をおろし、ここに草庵を結び一株の桜を植えて吟愛していた。世人はその桜を西行桜と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになったという。本堂とは別に西行庵があり、今は茶室となっている。

勝持寺 勝持寺 京都市西京区大原野春日町 (平7.9)

西行桜勝持寺 西行桜 勝持寺 (平7.9)

鏡石 鏡石 勝持寺 (平7.9)

西行庵勝持寺 西行庵 勝持寺 (平7.9) 

西行関連謡蹟 京都府

西行庵、西行の墓  京都市東山区  (平8・2記)

西行は晩年西行庵に住み、ここで没したともいわれ、双林寺には西行の墓がある。墓が三つ並んでいるが、まん中が西行の墓、右が康頼、左が頓阿の墓である。

西行庵京都 西行庵 京都市東山区円山公園 (平6.9)

西行の墓 西行の墓 京都市東山区円山公園 双林寺 (平6.9)

西光院  京都市西京区嵐山  (平8・2記)

ここ西光院も西行の庵址でここで死歿したとも伝えられ、寺には何代目かの西行桜もある。案内を乞うたところ奥様が快く寺の中に迎えてくれ、西行の木像も拝観させていただいたうえ、撮影の許可までいただき感激した。

西光院 西光院 京都市西京区嵐山 (平7.9)

西行桜西光院 西行桜 西光院 (平7.9)

西行木像西光院 西行の木像 (平7.9)

二尊院  京都市右京区  (平14・10記)

時期は不明だが京都の二尊院にも住んだことがある模様で、門をくぐってすぐ左側に西行法師庵の跡碑が立っている。

二尊院 二尊院 京都市右京区嵯峨二尊院前 (平10.3)

二尊院西行法師庵趾 西行法師庵の跡碑 二尊院 (平10.3)


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