香椎宮

謡蹟めぐり  難波1 なにわ

ストーリー

山は霞み、春の浦は波風も穏やかです。三熊野を信仰するある一人の臣下が、年籠りを終えて摂津の難波の里まで帰ってきました。見るとそこに老人と若者が、しきりに梅の木陰を掃き清めているのに出会います。その様子がいかにもすがすがしい風情であるので、臣下は老人にその梅は名木であるかと尋ねます。
すると老人は、難波の里に於てこの花を名木かと尋ねるのはいかにも心ないことであると、名高い難波の梅について、仁徳天皇と縁の深いことなどを教えます。老人はさらに、仁徳帝の仁政について詳しく物語り、最後に梅に縁のある春鶯囀(しゅんのうでん)(雅楽名)を奏して慰めようといい、若い男は梅の精、老いたる自分は難波津の歌を詠んだ百済国の王仁であると明かし、臣下を残して消え失せます。  夜になると、梅の精である木花咲耶姫とと王仁が現れ、姫の舞に続いて王仁が舞楽を奏し、天下泰平を祝福します。(『宝生の能」平成12年2月号より)

神功皇后、応神・仁徳両天皇ゆかりの謡蹟 (平10・1記)

本曲に登場する大鷦鷯命(おおさざきのみこと)は後の仁徳天皇であり、
「高き屋に登りて見れば煙立つ、民のかまどは賑ひにけり」
と曲中にその善政を謡っている。その仁徳天皇の父が応神天皇、応神天皇の父は仲哀天皇、母が神功皇后である。応神天皇は「花筐」に「我応神天皇の尊苗を継ぎながら・・」と登場しており、神功皇后も「国栖」に「神功皇后新羅を従へ給ひし・・」記されている。ともに謡曲に登場する人物である。
この3朝の期間は日本の歴史の上においても、伝説の時代から歴史の時代に移行する時期であり、神功皇后は実在しなかったという説や、邪馬台国の卑弥呼だという説がある等、史実として扱うには無理があるとも思われるが、ゆかりの古蹟も夥しい数にのぼるようである。その中で私が訪ねたものを紹介しながらこの時代を振り返ってみよう。

仲哀天皇豊浦(下関)進出

・ 忌宮(いみのみや)神社、豊浦(とよら)皇居趾碑、逆松(さかまつ)
  宿弥公孫樹(すくねのいちょう)、鬼石、満珠・干珠島  下関市長府宮の内町

神功皇后は仲哀天皇2年に皇后となった。仲哀天皇は九州熊襲の反乱を鎮圧するため下関市長府の豊浦宮に入った。忌宮神社の由緒にはこの間の経緯を次のように記している。

「 忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政務をとられた旧址にある。
天皇はさらに筑紫の香椎に進出せられたが、一年にして崩御せられたので、神功皇后は喪を秘して重臣武内宿弥に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に仮埋葬せられた。
そして、皇后はご懐妊中ながら男装せられ、熊襲を扇動していた新羅(しらぎ)征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。そのあと、皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をお祀りして「豊明宮」と称し、豊浦宮・忌宮・豊明宮と三殿別立の古社として栄えたが、その後中殿の忌宮に合祀したため、次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。 」

境内には「豊浦皇居趾」と記した立派な碑が建っているが、昭和35年5月、豊浦史蹟保存会の人々が相はかり建立したもので、題字は元貴族院議員内田重成翁米寿の揮毫という。
また「逆松」は神功皇后が新羅ご征討に際し、お手づから小松を逆さまに植えられ、「われ志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられる。枝葉茂って中天にそびえ、神木として尊重されてきたが、明治初年枯死し、今はその根幹だけが玉垣の内に保存されている。
社前広庭にある「宿弥公孫樹」は武内宿弥の手植えと伝えられ、今なお生き続けている。
「鬼石」・・仲哀天皇の豊浦宮に新羅の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動して攻め寄せた時、天皇はおん自ら弓矢をとってみごとに塵輪を射倒された。塵輪の首を切ってその場に埋め、上に石を置いたが塵輪の顔が鬼に似ていたところから、これを鬼石と呼んだという。
「満珠島・干珠島」は当神社の飛び地境内で、豊浦の島ともいう。日本書紀に「二年七月皇后豊浦の津に泊す。是の日如意の珠を海中に得給ふ。九月宮室を穴門に興して之に居給へり。是を穴門豊浦の宮と謂ふ」と記されている。また神社の社伝によれば、神功皇后ご凱旋の後、霊験いやちこなる満珠・干珠を両島に納められたという。
この島は神功皇后に関わる伝承のほか、源平の合戦で義経がこの島影に兵船を伏せて待機した史実もあり、「大原御幸」の項に写真も掲載しておいた。

忌宮神社 忌宮神社 下関市 (平3.10)

豊浦宮跡 豊浦皇居址の碑 忌宮神社 (平3.10)

仲哀天皇豊浦香椎進出、崩御

・香椎宮、御神木綾杉、不老水、武内宿弥像   福岡市香椎

仲哀天皇は長府豊浦宮から九州の香椎宮に地に進軍、行宮を定めたが、翌年仲哀天皇9年に急に崩御された。仲哀天皇の崩御についてはいろいろの説があるようで、熊襲と戦って戦死したというものから、熊襲の背後には強力な新羅があり、熊襲征討を中断して新羅を平定せよという神功皇后の伝えた神託に従わなかったため、神罰をうけて急死したというもの、また神功皇后により弑せられたともいう。
香椎宮の祭神は仲哀天皇、神功皇后を主神とし、応神天皇を配祀している。神社の由緒を抜粋してみる。

「 香椎宮の創建は仲哀天皇の御神霊を神功皇后みずからお祀り遊ばされたことに由来し・・・
仲哀天皇8年筑紫の樫日宮にましまして天下治しめし率先御精励のさなか御志なかばにして俄に崩御遊ばされました。皇后は御遺志を継がれ、神祇の教を受け御懐妊の身をもってみずから国内を平定せられ、更に船団を率いて三韓御渡航の壮挙を果たされ、初めて国際国家としての日本の地位を確立せられました。この御大業はまさに神わざとして史上に輝き以後六百年にわたって朝貢あり帰化あり、交流盛んにして国運いよいよ隆昌に赴きました。御子応神天皇は八幡神としてあまねく信仰を集められ、御孫仁徳天皇は世界最大の陵墓たる仁徳稜によって聖徳を偲ぶことができます。かの雄渾な土木技術をはじめ、建築、工芸、縫織、文教あらゆる文化の恩恵は全く当御祭神の赫々たる御神威に淵源し、やがて絢爛たる日本文化の花が開かれて行きます。この国に生を享ける者の一日も忘るまじき御神徳であります。 」

御神木「綾杉」・・境内の「綾杉」は神功皇后が韓国から凱旋後、三種の宝(剣・鉾・杖)を埋めて鎧の袖の杉枝を挿し「永遠に本朝を鎮護すべし」と祈りをこめて植えたものが大木となったものという。普通の杉と異なり葉は海松のように大小の葉があたかも綾のように交互に出ているので綾杉と称している。
「不老水」は300年の長寿を保ち、五朝にお仕えした武内宿弥が掘った井戸で、香椎宮創建以来毎年朝廷に献納している霊水である。境内にはまた「武内宿弥の像」も建っている。

香椎宮 香椎宮 福岡市香椎 (平8.5)

綾杉 御神木綾杉 香椎宮(平8.5)

宿弥像 竹内宿弥像 香椎宮 (平8.5)

神功皇后新羅征討 船出・戦勝祈願の地

・ 神功皇后軍船建造の地碑、日本最古の浮きドック 広島県倉橋町桂ケ浜
・ 福成神社      福岡県朝倉町
・ 神功皇后釣竿の竹  神戸市生田神社
・ 鏡山神社      佐賀県唐津市

神功皇后は喪を終えた後、武内宿弥と計り、神託に従って新羅征討のため三韓に向かう。懐妊中であったが卵形の石を腹に抱いて凱旋するまで出産しないよう祈り船出した。 船出の地・戦勝祈願の地としては前述の香椎宮のほか、敦賀市、小浜市、光市、小野田市、佐賀県玉島等数多くあるようであるが、まだ訪ねていない。

広島県呉市から音戸の瀬戸を渡ると倉橋島である。この島の桂ケ浜に「神功皇后三韓征伐ニ付軍船建造の地」碑がある。このあたり瀬戸内海の海上交通の要衝の地点であるから、新羅と交渉があったとすれば造船所があったとしても不思議ではない。近くには「日本最古の浮きドック」跡が残されている。旧日本海軍にとってもこのあたりは重要な地であったとみえ、海軍兵学校のあった江田島もすぐ隣りの島である。私も海軍の特殊潜航艇乗組員として、この倉橋島にしばらく居住し、この島で建造していた潜航艇の機構の勉強に通ったことがある。

皇后は出陣にあたり各地で戦勝を祈願しているが、福岡県の「福成神社」もその一つである。神社の近くには「綾鼓」に登場する老人「源太の墓」があり、舞台となった「桂の池」も近くにある。

佐賀県浜玉町の玉島川は「国栖」の曲に謡われるとおり、神功皇后が戦勝の占いに鮎を釣ったところであるが、この「神功皇后釣竿の竹」が神戸市の生田神社の境内にある。 九州唐津市の「鏡山神社」は皇后が戦勝を祈って鏡を納めたため、鏡山の名が生まれたところといわれ、松浦佐用姫の古蹟として別名嶺巾振(ひれふり)山とも呼ばれるが、その写真は「俊寛」の項に掲げた。

軍船建造 神功皇后軍船建造の地碑 広島県倉橋島 (昭53.11)

浮きドック 日本最古の浮きドック 倉橋島 (昭53.11)

福成神社 福成神社 福岡県朝倉町 (平8.5)

釣り竿竹 神功皇后釣竿の竹  神戸市 生田神社 (平2.5)

神功皇后新羅征討から凱旋、上陸地、応神天皇の誕生地、武具を埋めた地

・ 高砂の浦、高砂神社、尾上神社、尾上の鐘  高砂市、加古川市
・ 沢神社、いかり石            香川県多度津町青木
・ 筥松(筥崎宮)               福岡市東区箱崎
・ 藤森神社                 京都市伏見区深草鳥居崎町
・ 玉島                   高知市横浜港町

皇后は新羅征討に成功して二ケ月後に凱旋したという。凱旋上陸地、暴風雨に遭い漂着したといわれる所も、広島の鞆の浦、福岡市多々良町名島、堺市、和歌山市、小豆島、秋田県象潟等数多くあるようである。

「高砂の浦」も上陸地といわれ、「高砂神社」は皇后の創建と伝えられ、「尾上神社」の「尾上の鐘」は皇后が朝鮮から持ち帰ったものという。写真は「高砂」の項に掲げた。

四国多度津町にある「沢神社」は、凱旋時海が荒れて船泊りした所とされ、神社の裏に碇泊に使用した「いかり石」がある。

応神天皇は皇后の祈願どおり凱旋するまで出産されなかったが、生誕地としては福岡市宇美町にある宇美八幡宮が有名であるが、まだ訪ねていない。

「唐船」の舞台、福岡市の筥崎宮境内に「筥松」があるが、皇后が皇子の胞衣を箱に納めて埋め、しるしに植えた松と伝えている。筥崎の地名の起源となった松である。

武具を埋めたという伝説地は多いようだが、京都市深草の「藤森神社」も神功皇后が凱旋後、旗と武具を納めた所で、神功皇后、応神天皇を奉祀する。

また、凱旋上陸とは直接結びつかないが、四国の高知市浦戸湾に浮かぶ「玉島」は神功皇后が巡幸のみぎりにこの島に着船させ、そこで鶏の卵に似た白い石を拾ってたいへん喜び、これは海神が賜った白真珠であるとして、島の名を玉島と名付けたという。

沢神社 沢神社 多度津市 (平6.9)

いかり石 いかり石 多度津市 (平6.9)

はこ松 筥松 福岡市 筥崎宮 (平8.5)

藤森神社 藤森神社 京都市伏見区 (平6.5)

玉島 玉島 高知市浦戸湾 (平9.4)

二人の兄皇子との合戦、大和に入り都を定め摂政となる。

・ 戦川(いくさがわ)  宇治市菟道
・ 気比神宮       福井県敦賀市

新羅征討から凱旋した神功皇后は大和に帰還しようとしたが、仲哀天皇の前の皇后大中姫の子どもである、香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王兄弟の反撃を受けた。新羅征討の間留守をしていた二人の皇子は、皇后が戻れば自分の子を皇位につけるにちがいないと思い、反乱を決心したのである。二人は父天皇の稜を播磨の赤石(明石)に作るといって大勢の人を集め、皇后の船を明石海峡で食い止める作戦を立てた。しかし、香坂王は狩で野猪のため傷つき逝去、忍熊王は退いて宇治の「戦川」を挟んでの激戦の結果敗れて、遂に瀬田で琵琶湖に身を投げて死んでしまった。
香坂・忍熊両王の乱を平らげたあと、皇后はその禊ぎのために、武内宿弥に命じて、皇子を奉じて敦賀の気比神宮に詣でさせた。
無事大和に入った皇后は幼帝応神の摂政として磐余(いわれ)(奈良県櫻井市)に稚桜宮(わかさくらのみや)に皇居を定めた。そして応神朝110年のうち、70年間摂政を行ない、百歳の長寿をもって崩じたという。奈良市山稜町に神功皇后の御陵があるがまだ訪ねていない。

戦川 戦川 宇治市 (平8.4)

気比神宮 気比神宮 敦賀市 (平6.11)


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