阿波の鳴門で夏籠りをしている僧が、この浦は平家一門が滅びた所であるからと、毎夜読経していました。ある夜、僧の前に老いた漁夫と年若い女を乗せた小舟が現れ、波枕に聞こえた経を聴聞したいと言います。
僧は磯辺に舟を寄せさせて経を読み、この浦で果てた平家の人々のことを問うと、二人は、中でも通盛の妾小宰相局(こざいしょうのつぼね)の最後こそ最も哀れだと物語り、突然満ち潮の海に飛び込み消え失せてしまいます。
不思議な出来事と思いながら、尚も読経を続けている僧の前に、通盛と小宰相の亡霊が在りし日の姿で現れ、一の谷の戦の前夜、二人が月の光の中で名残の盃を交わして別れを惜しんだことなどを語ります。通盛が戦いに赴くと、経政、忠度と一門は次々に討たれ、自分も木村源五重章と刺し違えて討死にしたと、その様子を語り、僧の回向で成仏出来るようになったことを喜び、消え去ったのでした。(「宝生の能」平成12年6月号より)
小宰相は頭刑部卿藤原範方の娘で、宮廷に仕え禁中一の美女と評判された。清盛の甥通盛に見初められ、三年越しの純愛のロマンの末に二人は結ばれたが、間もなく平家没落の悲運にあわねばならなかった。
寿永3年2月7日、一の谷の戦いに通盛も湊川付近で討死をした。屋島に落ちてゆく軍船の中でその悲報を受けた彼女は悲しみにたえず、13日夜半、鳴門に近い春寒の瀬戸内に身投げして、亡き夫を慕い19歳の花の命を絶った。一旦船に引き上げられた麗人の遺体は従者たちによって美しい衣を着せられ、再び海底深く水葬されたという。その時彼女は懐妊していたとも伝えられる。付近の人は哀れに思って鳴門の海がよく見える丘の上に墓を建てて弔った。
鳴門の渦潮 (昭59.3)
小宰相の墓 鳴門市鳴門町土佐泊 (平12.9)
このあたり一帯は古来平家の落人が隠れ住んだ所と伝えられる。年代は明らかではないが「局が多摩」と呼ぶところに七つの古墳があり、平家一門の局ら七人自決の墓と伝えられてきた。その中心をなす塚は約5.5メートルの舟型に石積みされている。 昭和37年有志によって薄命の佳人小宰相の局の念願どおり平通盛の霊を招き迎える供養塔が建立された。この石塔は古い舟型の積石塚の上に帆をあげた形に造られている。これは相思相愛の二人と従者六人の霊を供養したものという。
通盛小宰相供養塔 淡路島 (平12.9)
伝説では屋島の戦いに敗れた平家の一族、平通盛一行がこの地に逃れ、小宰相とともに余生を送ったという。神社は通盛を祀り、御神体には通盛公が自ら彫ったと称する、通盛・小宰相の木像を祀るという。祭礼は旧暦の8月13日に行われ、当日は能登原、草深、常石の浜から甲に兜をつけたような平家蟹が山をよじ登ってきたと伝えられている。
通盛神社 広島県沼隈町 (平11.9)
ここに通盛と小宰相の墓がある。小宰相の乳母呉葉が兄住蓮の住持するこの寺に小宰相の遺品を携えて入寺し、通盛と小宰相を弔って生を終えたという。
左から乳母呉葉の墓、住蓮上人の墓、小宰相の墓、通盛の墓
願成寺 神戸市兵庫区 (平2.5)
木村源五重章は通盛と刺し違えた人で曲中に謡われる。神戸市長田区の長田区役所の西、新湊川あたりに一の谷合戦で討死した人たちの碑が集められているが、その中に両人の碑が並んで建っている。写真一番右が通盛の碑、中央が木村源五重章の碑、左は本曲には関係ないが、平盛俊を討った源氏の武将猪俣小兵六則俊の碑である。
右から通盛、木村源五、猪俣小平六の碑 神戸市長田区 (平8.9)