京都の仁和寺、御室御所の守覚法親王は、琵琶の名手である平経政を少年の頃から寵愛されていました。ところが、このたびの一ノ谷での源平の合戦で経政が討たれてしまったので、生前彼にお預けになったことのある「青山(せいざん)」という銘のある琵琶の名器を仏前に供え、管弦講(音楽法要)を催して回向するように、行慶僧都に仰せつけになります。行慶は、管弦を奏する人々を集めて法事を行います。
するとその夜更け、経政の亡霊が幻のように現れ、御弔いの有難さにここまで参ったのであると、僧都に声をかけます。そして、手向けられた琵琶を懐かしんで弾き、夜遊の舞を舞って興じます。しかもそれもつかの間、やがて修羅道での苦しみにおそわれ、憤怒の思いに戦う自分の姿を恥じ、灯火を吹き消して闇の中へと消え失せます。(「宝生の能」平成13年11月号より)
曲中のクセ前後に出てくる名文句に心をうたれ、その出典を調べ現代語訳を試みてみました。
白楽天 琵琶行
大絃噌々如急雨 大絃はそうそうとして 急雨の如く
小絃切々如私語 小絃は切々として 私語の如し
[現代語訳]
大絃は激しく鳴って夕立のように、小絃はしめやかで、ささめきのようである。
(山田勝美著「中国名詩鑑賞事典」より)
*琵琶行については、「猩々」の項の解説参照。
白楽天 管絃
第一第二絃索々 第一第二の絃は 索々たり
秋風払松疎韻落 秋の風松を払って 疎韻落つ
第三第四絃冷々 第三第四の絃は 冷々たり
夜鶴憶子篭中鳴 夜の鶴子を憶うて 篭の中に鳴く
第五絃声最掩抑 第五の絃の声は 最も掩抑せり
隴水凍咽流不得 隴水凍り咽んで 流るることを得ず
(この部分は「蝉丸」にも引用されています)
[現代語訳]
五絃琴の第一・第二の絃は低く太い音で、秋風が松の枝に吹く時のようにざわざとしたひびきです。
第三・第四の絃は調子が高くてりんりんとひびき渡り、夜の鶴が子を思って籠の中で鳴くような哀切さがあります。
第五の絃は最もその音がするどく、また押さえつけられたようであり、かの朧頭の水が氷に閉ざされて咽び滞っているのを思わせます。
(川口久雄著「和漢朗詠集全訳注」より)
公乗憶 管絃
一声鳳管秋驚秦嶺之雲 一声の鳳管は 秋秦嶺の雲を驚かす
数拍霓裳暁送候山之月 数拍の霓裳は 暁候山の月を送る
(玄宗皇帝が洛陽の連昌宮という宮殿で、管絃の遊びをした時のさまを詠んだもの)
[現代語訳]
鳳鳴の笙の澄んだ響きは、はるか秦嶺に並び連なる秋の雲に伝わってゆきます。
霓裳羽衣の舞の伴奏のリズムは、かの候氏山頭の有明けの月が沈むのを送るように鳴りひびいています。
(川口久雄著「和漢朗詠集全訳注」より)
本曲の舞台は京都、仁和寺である。宇多天皇が建立し、上皇となってここに住まれたので「御室御所」と言われ、法親王が住持になるのを例とした。
経政は幼少の時から御室に仕え、守覚法親王に寵愛されていたが、一の谷の合戦に討死したので、経政に預けられていた「青山」という琵琶も名器も供え、管絃講で弔われたという。
私も仁和寺には何回か訪れた。
仁和寺 (唱59.6)
最初に訪ねたのは、昭和58年7月、大阪出張の帰途である。時間を割いて京都に途中下車、嵐山、嵯峨野、保津峡、そしてこの仁和寺等を訪ねた。謡蹟に興味を覚えはじめた頃である。
その次は翌59年6月、仁和寺内、御室会館で開催された戦友会(旅順予備学生関係)に参加した時である。慰霊祭は仁和寺隣りの蓮華寺で行われた。管絃講ならぬラッパの音にあわせて軍艦旗を掲揚、「海ゆかば」を歌って戦友の霊を慰めた。懇親会は御室会館内の広間、杯を交わして往時を語りあった。経政の管絃講のあとでもこの辺りで一杯やったのではなかろうか。
仁和寺御室会館で開催された戦友会 (唱59.6)
ラッパの音、軍艦旗掲揚の慰霊祭 仁和寺隣蓮華寺 (平6.9)
神戸市兵庫区に、清盛塚に隣合って「琵琶塚」がある。「青山」の琵琶を埋めたと伝え、また経政の墓ともいう。写真中央には清盛の像、その向こうには十三重の清盛塚も見える。
琵琶塚 神戸市 (平8.9)