安居院の法院が石山寺の観世音に参詣する途中で、一人の里女に呼び止められます。女は自分は石山寺で「源氏物語」を書き上げたが、主人公の光源氏を供養しなかったために未だに成仏出来ないので、源氏の君の供養と私の菩提を弔ってほしい、と頼みます。法院は驚きますが、女が紫式部の霊と判って引き受けます。すると女は、夕日影の中をかき消すように失せてしまいます。
法院は、門前の男に紫式部について聞き、石山寺にしばらく逗留して弔うことにします。自分の念願の仏事を終え、ついで式部のための弔いをします。夜が更けると式部の霊が紫の薄衣をまとい現れ、共に源氏の回向をします。そして供養の礼に舞を舞い、成仏します。法院は、式部は観世音が仮にこの世に現れたもので、「源氏物語」もこの世が夢であることを人々に教える方便だと知ります。(「宝生の能」平成13年6月号より)
石山寺は西国13番の札所でもある。平成3年4月に訪ねた時にはちょうど「紫式部展」が開催されていたので、源氏の間などを拝観し「紫式部と石山寺」なる小冊子を求めてきた。その冒頭に石山寺と紫式部との関係が要領よくまとめられているので抜粋してみよう。
石山寺 大津市 (平3.4) 西国13番の札所でもある
源氏の間 石山寺 (平3.4) 式部はここで「源氏物語」を執筆したという
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「平安時代寛弘元年(1004)紫式部は新しい物語を作るために石山寺に7日間の参籠をしていた。村上天皇皇女選子内親王がまだ読んだことのない珍しい物語を一条院の后上東門院に所望したが、手許に持合わせのなかった上東門院が女房の紫式部に命じて新作の物語を書かせようとしたので紫式部は祈念のため籠ったのである。折しも八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮かび、とりあえず手近にあった大般若経の裏に「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく・・・」と、ある流謫の貴人が都のことを想う場面を書き続けて行った。源氏物語はこのように書き始められ、その部分は光源氏が須磨に流され十五夜の月に都での管弦の遊びを回想する場面として須磨巻に生かされることになった。」
石山寺縁起や源氏物語の古注釈書である河海抄をはじめとしていろいろの書物に記されているこの源氏起筆の物語は、古くから心ある人々に親しまれて来て、石山寺と源氏物語、紫式部はともに語られることが多い。式部の参籠したという部屋は源氏の間として保存され、またその時使用されたといわれる硯も今に伝えられている。そして折々に人々は源氏物語や紫式部に因んだ美術品や文学作品を石山寺に寄せて平安朝のいにしえをしのぶよすがとしてきた。・・・中略
このように、物語が誰によってどのように書かれたかということに深い関心が寄せられて来たのは源氏物語をおいて他に例がない。それは石山寺の観音信仰が分かちがたく結びついているからであろう。石山に詣で、観音に祈る人々は、同時に昔日ここへ来て物語を書いたという紫式部に思慕の念を抱いたにちがいない。因みに、中世においては、物語の想を練る式部の姿に観音をオーバーラップさせた画像が作られ、紫式部観音の信仰があったのである。
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引用がだいぶ長くなってしまったが、この程度にして紫式部がかって月を眺めたという月見亭に立ってみる。「石山寺の秋の月」として近江八景の一つに数えられているくらいだから、この高台から眺める月は素晴しいことであろう。訪ねたのは昼であるが、眼下に見える瀬田川ははるか琵琶湖につながる雄大な眺めである。川にはいくつかの橋がかかっている。そのうちの一つが瀬田の唐橋であろう。坂上田村麻呂はこの「石山寺を伏し拝み、瀬田の長橋を打ち渡って」東国に向かった。また源平の両軍も何回となくこのあたりで合戦が繰り広げられた。本曲をはじめとして、「田村」「頼政」「兼平」「巴」「竹生島」等々、謡曲の名が次々と浮かんでくる。
月見亭 石山寺 (平3.4) 紫式部がかって月を眺めたというところ
本曲にも述べられているように、源氏物語執筆の場所は一般に石山寺と考えられ、源氏の間がそれとされる。ところが近年ここ盧山寺がクローズアップされ、石山寺よりむしろ確実性が高いといわれる。境内に「源氏庭」や「紫式部邸宅址」の碑があり、源氏物語を執筆したのも、死歿したのもここであると主張されている。
また、同じ盧山寺境内のすこし離れたところには、「東北」に出てくる「澗底の松」や「雲井の水」の古蹟がある。この曲の舞台の東北院は現在東山黒谷にあるが、もともとは一条天皇の中宮上東門院(藤原道長の娘の彰子)の御願により道長が法成寺の境内の東北に建立したもので、一旦廃絶したが、元禄年間に今の場所に再築された。その元の場所が今の盧山寺のあたりとされ、このような関係から東北院関係の古蹟がここに残っている由である。また、境内には慶光天皇の御稜がある。
廬山寺 京都市上京区寺町広小路 (平5.9) ここも「源氏物語」執筆の場所といわれる
源氏庭 廬山寺 (平5.9) 撮影禁止のため頒布されていた写真を掲げる
福井県武生市に立派な紫式部公園がある。昭和61年完成した面積約3千坪の大きな公園で、大きな石に刻まれた「紫式部公園」の碑や金色に輝く「紫式部像」が目をひく。
源氏物語の作者として名高い紫式部が、当時日本の表玄関敦賀を擁する大国の越前国守に任じられた父・藤原為時とともに、国府の置かれた武生に滞在した。北陸の雪の日々や、敦賀港から入る宋の国の文化に接したことは、多感な頃の紫式部にとって大いに刺激的であったと考えられる。そんな紫式部を偲んで造られた公園とのことである。
公園の中でもひときわ美しく輝くのが紫式部像。制作者は文化勲章受章者の圓鍔勝三氏。高さは(台座にかかる十二単衣の裾を入れて)約3メートル。北陸の緑や雪に映えるようにと金箔で仕上げられており、聡明できれいな女性であったと言われる紫式部の表情がうかがえる。
この公園の池も工夫されているそうで、一晩中、池の水面に月が映り続けるようになっていたり、紫式部像が映るようになっていたり、四季折々の自然の姿が池にあらわれたりと計算されているとのこと。
池辺に再現された釣殿は総桧造り。納涼や月見・雪見の宴、詩歌管弦の場所として使われたものだそうだ。
こんなに立派なものを造っていただき、紫式部もさぞ喜んでいることと思う。
紫式部公園の碑 武生市 紫式部公園 (平7.5) 大きな石に刻まれた碑が目をひく
紫式部像 紫式部公園 (平7.5) 金箔で仕上げられひときわ美しく輝く
釣殿 紫式部公園 (平7.5) 納涼や月見、雪見の宴の場所を再現したもの
大徳寺塔頭真珠庵に紫式部産湯の井戸があるというので訪ねてみたが、拝観謝絶とのことで残念ながら井戸をみることはできなかった。大徳寺は洛北随一の大寺院で数十の塔頭が建ち並び、寺というよりは寺町を思わせる景観である。謡蹟としては勅使門のそばに「俊寛」関連の「康頼の墓」がある。
大徳寺塔頭真珠庵 京都市北区紫野 (平6.4) 紫式部産湯の井戸がある由、拝観謝絶
産湯の井戸があるという大徳寺から北大路通りを隔て、堀川通りを少し南に下がったところに紫式部の墓がある。歩いても10分くらいの近いところである。立派に整備されていた。
紫式部の墓 京都市北区紫野 (平6.4) よく整備されている
この紫式部供養塔はもと前項の墓とともに、もと雲林院の末寺であった白毫院にあったのが、大徳寺建立のこともあって、供養塔はここ千本閻魔堂内に移され、墓だけはそのまま残されたという。供養塔は寺の右手奥の庭にひっそりと建っており、周りの木の葉に隠れてうっかりすると見逃してしまいそうである。しかし十重の立派な石塔で重要文化財にも指定されているとのことである。
紫式部供養塔 千本えんま堂 (平5.9) 十重の立派な石塔である
国分寺町はその昔国分寺、国分尼寺のおかれたところで、このあたり一帯は「しもつけ風土記の丘」として親しまれており、今でもその史跡が残っている。
この近くに「紫式部の墓」があると聞き訪ねたところ、思いがけなく「天平の丘公園」が新しく完成し「紫式部の墓」もその一隅にあることを知った。
天平の丘公園 栃木県国分寺町 (平5.8) 公園内に紫式部の墓がある
紫式部の墓 天平の丘公園 (平5.8) 地名からとったもののようである
公園の中の「防人(さきもり)街道」を歩き、萬葉植物園を通り「紫式部の墓」に詣でる。式部とどのような関連があるのか興味があったのだが、案内板によるとどうやら地名の紫からとったもののようである。
「 紫式部の墓
この塔は五輪の塔で鎌倉時代の樣式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ樣式の塔が数多く建立されたものと思われ、ここより約一キロメートル北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は「紫」という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と、言われるようになったと思われます。 環境庁・栃木県 」
「紫」といえば、公園内の萬葉植物園で、「むらさき」という植物に次の萬葉集和歌が添えてあるのに気がついた。
「 むらさき ・ 万葉呼名 むらさき
紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を
憎くあらば 人妻ゆゑに
われ恋ひめやも
(一・二一) 大海人皇子(おおあまのみこ)」
「紫式部」という植物もある筈だが、残念ながら見つけることが出来なかった。
公園の北西部には古墳の形を模した「平成の丘」が造成され、頂上を万葉からとって「国見山」と称し、舒明天皇の御製を記した碑が建てられていた。
「 天皇 香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は
煙立ち立つ 海原(うなばら)は 鴎立ち立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 」
「防人街道」「万葉植物園」「国見山」など、なかなか楽しい公園である。
むらさき 天平の丘公園 (平5.8) 万葉集の和歌がそえてある
京都文化博物館は、京都の歴史と文化をわかりやすく紹介する総合的な文化施設として、昭和63年オープンされた。館内に紫式部の像を見つけたので紹介する。作者は京都教育大学名誉教授・日展評議員杉村尚氏で、社団法人現代教育研究協会が創立20周年の記念事業として京都府に寄贈されたものである。
紫式部の像 京都文化博物館 (平5.9) 館内で偶然発見した
琵琶湖西岸の滋賀県高島町に猿田彦命を祀る白鬚神社がある。宝生流にはないが、他流には「白鬚」という曲があり、この神社の縁起を謡っている。この神社の境内で偶然紫式部の歌碑を見つけたので紹介する。碑には
三尾の海に 網引く民の ??もなく
立ち居につけて 都恋しも
と刻まれている。この歌は紫式部がこの地を通った時詠んだものである。父の越前守赴任に伴われ、式部は都を立ち逢坂山を超え大津から船に乗り湖西を通ったが、網を引く人々の見馴れぬ光景を見て、都を恋しく思い出し読んだものといわれる。
白鬚神社 滋賀県高島町 (平10.4) 境内に紫式部の歌碑がある
紫式部の歌碑 白鬚神社 (平10.4) 父に伴われ越前に赴任するときこの沖を通り読んだという
大津市坂本の慈眼堂裏の墓地に、桓武天皇宝塔、新田義貞宝塔、和泉式部の塔と並んで紫式部の供養塔がある。
紫式部供養塔 大津市坂本 慈眼堂 (平10.4)
京都の時代祭には紫式部も清少納言とともに登場する。
時代祭の紫式部 京都市 (平8.10)
本曲のワキ法印が住持する安居院は昔は雲林院と並ぶ広大な地域を占めた寺院であったが、今僅かに安居院西法寺として名残りをとどめる。境内に法印の墓があるというので訪ねたが、残念ながら中に入れなかった。
聖覚法印旧跡 西法寺 (平6.4) 本曲ワキの墓がある