百歳堂

謡蹟めぐり  関寺小町 せきでらこまち

ストーリー

小野の小町はその衰えた老躯を、江州関寺の山陰に小さな庵を結んで侘びしく暮らしていた。この所の住僧は七月七日の七夕祭の日に、あたりの稚児たちを連れて小町を訪ね、歌道の物語を聞かせてほしいとお願いする。小町は今は既に埋もれ木となって、そのようなことは思いもよらぬと断るのであるが、強いての僧の頼みをききいれ、歌道についての古いことなどをねんごろに語って聞かせた。
そうこうしているところに、一人の住僧が小町を迎えにきたが、小町は今の身を恥じて一度は断ったのであるが、遂に住僧どもに招じられて寺に赴いた。寺では今宵は織女の祭というので、糸竹管弦を催し、童舞などを舞って興を添えていたが、小町もその面白さに、いつか心も昔にかえって立ち上がり、舞の手も、返す袂もとかく忘れがちで、その上足腰もよろめくのであったが、それでも舞を舞いつつ昔を偲び、あこがれる風情であるが、初秋の短か夜なればあさまにもならば恥ずかしいとて、杖にすがり自分の庵へとたよたよと帰り行くのであった。(謡本を意訳)

長安寺、月心寺、関蝉丸神社  (平15・11記)

本曲の舞台関寺は現在の大津市逢坂にある長安寺を含む大きな寺であったという。ワキの関寺の住僧は、その山陰に庵を結ぶ老女の小町を訪ねている。
現在長安寺の境内には小野小町供養塔があり、近くの関蝉丸神社の裏山には小町の墓という小町塚がある。またこれも長安寺から近い月心寺の百歳堂には小町百歳の像があるという。
関寺の創建は古いが、恵心僧都源信が再建したという。その時一頭の牛が現われ、大いに工事の手助けをしたが、実はこの牛は迦葉仏の化身であり、この霊牛を供養するために大石塔が建てられた。これが今に残る牛塚で、石造宝塔としては最古最大であるといわれている。

長安寺 長安寺(関寺址) 大津市逢坂 (平13.11)

小町供養塔 小野小町供養塔 長安寺 (平13.11)

小町塚 小町塚 関蝉丸神社裏山 大津市逢坂 (平13.11)

百歳堂 月心寺百歳堂 大津市大谷 (平13.11)

牛塚 牛塚 長安寺 (平13.11)

衣通姫邸址、允恭天皇陵   (平15・11記)

曲中に允恭天皇とその后衣通姫の名が出ているので調べてみた。
允恭天皇7年12月、新居落成の祝いが行われ、天皇自ら琴を奏で皇后が舞を舞った。当時の慣習として、舞の終わりに舞手は帝に対し「娘子(おみな)を奉りましょう。」と言うのが常であったが、皇后はこれを言いたくなかった。天皇に促され渋々奏上したところ、天皇はすかさず、「そは、誰そ」と問い、慌てた皇后はつい、「私の妹、弟姫です」と答えてしまう。
当時弟姫は、容姿端麗でまばゆいばかりの肌の細やかさから、衣通姫(そとおりひめ)と呼ばれていた。皇后は天皇が妹に心奪われることがわかっていたので実は隠していたのである。案の定天皇は、姉の心中を推し量って入宮するのをためらう衣通郎女の元へ、再三使者を送りとうとう妃になることを了承する。
天皇はしかし、皇后の嫉妬をおそれて宮中に迎える事はせず、藤原部を定めて新しく茅渟宮を造営しそこへ足繁く通うのである。
皇后の怒りは増大し、皇后の出産が迫っても天皇は衣通姫の元への行幸を止めなかったので、さすがの皇后も死を決意する。 これには天皇も慌てて、平身低頭謝ったという。この時皇后が出産したのが、後の雄略天皇である。
泉佐野市に衣通姫の邸(茅渟宮)址があり、大阪府藤井市に允恭天皇の陵がある。

衣と織る 衣通姫邸(茅渟宮)址 泉佐野市上之郷 (平10.3)

允恭天皇陵 允恭天皇陵 藤井市国分寺 (平10.3)


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