松風村雨堂

謡蹟めぐり  松風 まつかぜ

ストーリー

諸国一見の旅の僧が、月の美しい秋の夜に須磨の浦を訪れます。松風・村雨二人の海人の旧蹟を弔った後、とある塩屋に宿を借ろうと訪ねたところへ、二人の若い女の海人が、浜辺の夜景をめでながら汐汲み車を引いて帰って来ます。僧は一夜の宿を請い得て喜びつつ、在原行平の詠歌「わくらわに」を口にし、夕暮れに弔った松風・村雨の松のことを話します。
すると女たちは急に涙を流すので、訳を問うと、実は自分たちは行平の愛を受けた松風・村雨二人の海人の幽霊であるが、行平との契りが忘れがたく、その妄執にひかれて、こうして現れ来たものだと明かします。昔を懐かしんでいるうち、松風は行平の形見の装束を取り出し、それを抱き締めて恋慕の思いにむせびます。そのうちに松風は物狂おしい体となり、形見を身に付けて舞を舞い、僧に弔いを頼んで夜明けとともに消えて行きます。(「宝生の能」平成11年10月号より)

松風村雨堂 神戸市須磨区離宮前町 (平19・6記)

離宮前町の山陽電鉄踏切のあたり、道路から一段高いところに松風村雨堂がある。在原行平は仁和2年(886)光孝天皇の怒りにふれ須磨の浦に配流されたが、その蟄居の跡ともいう。その時汐汲みに通っていた多井畑の村長の娘、「もしほ」「こふじ」の姉妹をいとおしく思い、「松風」「村雨」の名を与えて仕えさせた。三年の後許されて都へ帰る行平は、小倉百人一首で有名な
   たち別れいなばの山の峰に生ふる
          まっとし聞かばいま帰り来む
の歌を残し、烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け、姉妹への形見とした。二人の姉妹はたいそう悲しんで庵を建て、観世音菩薩を信仰し行平の無事を祈っていたという。
海岸からだいぶ離れているので、塩汲みや松風の音を想像するのは困難であるが、往時はこのあたりも海に近かったのであろう。
ちいさな敷地には二つの小さな祠、三代目衣掛けの松、たち別れの歌碑がある。

松風村雨堂 松風村雨堂 神戸市須磨区 (昭54.9)

松風村雨堂碑 松風村雨堂の碑 (昭61.9)

衣掛け松 衣掛けの松 (平12.9)

松風、村雨の墓 神戸市須磨区多井畑  (平19・6記)

松風・村雨は行平の死後、聖地の多井畑に帰り、淋しく没した。部落の民家の間に「松風・村雨二女の碑」と小さい二基の五輪の塔が建っている。これが二人の墓と言われる。近くには二人の姉妹が姿を映し、髪をすいたという「鏡の井」がある由。

松風村雨の墓 松風・村雨の墓 神戸市須磨区多井畑 (平12.9)


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