渉成園1

謡蹟めぐり  融 とおる

ストーリー

東国から都へ上って来た旅僧が、六条河原院の廃墟で休んでいると、田子を担った汐汲みの風情の老人がやって来ます。海辺の土地でもないので不思議に思い尋ねると、老人はここは昔、源融公が広大な邸宅の庭内に陸奥の塩釜の景色を移した所だと答えます。そして融公は、日毎に難波の浦から海水を運ばせ、塩を焼かせる豪奢な風流を楽しんだが、その後は相続する人もなく荒れ果てている事を物語り、僧に辺りの名所を教え、やがて汀で汐を汲むかと思うと、姿は消え失せます。
僧は、丁度来合わせた六条辺りの者から融大臣の事などを聞かされ、先刻の老人というのは融公の霊の化身であろうかと弔いをするよう勧められます。その夜、僧は再び奇特を見たいものだと旅寝をします。すると融大臣が貴人の姿で現れ昔を偲んで舞を舞い、やがて夜も明ける頃、月の都へ去って行きます。(「宝生の能」平成12年12月号より)

河原院址碑 京都市下京区河原町五条  (平成9・12記)

五条大橋南西の地、高瀬川を少し下った所に巨木に挟まれたような感じで「此附近 源融河原院址」の碑がある。嵯峨天皇の皇子、源融が陸奥の国千賀の塩釜の風光を都の中に移した豪邸があった所で、邸内に鴨川を引き入れて池とし、楼閣が立ち並び、毎日難波の浦より潮を二、三十石運ばせて塩を焼き風雅を楽しんだという。随分広大な地域であったらしいが、融の死後、長男の湛(たたり)が維持できず、曲中紀貫之が
     君まさで煙絶えにし塩釜の
        浦さみしくも見え渡るかな
と歌うように、浦さびしくも荒れ果ててしまった。

河原院跡碑 河原院址の碑 京都市 (平3.9)

枳穀邸(渉成園) 京都市下京区河原町 (平成9・12記)

河原院址碑のある所から河原町通を南に500メートルほど歩くと東本願寺の別邸枳穀(きこく)邸(渉成園)があり、河原院の面影を今に伝えている。しかしこの庭園が河原院の庭園の跡ではなく、河原の院の庭石を移して造った庭園だという。中には印月池という充分舟遊びができるほどの広い池があり、その中には籬が島らしい島も見られ、鶴島には九重の石塔が立てられていて融の墓と伝えられる。
京都駅のすぐ近くにこのような立派な庭園があるというのは驚きであり、嬉しくもある。ただ参観券がないと入園できないが、参観券は東本願寺で容易に入手できる。

渉成園1 枳穀邸(渉成園) 京都市 (平3.9)

渉成園2 九重の石塔 枳穀邸  融の墓とも言われる(平3.9)

塩釜神社  塩釜市一森山 (平成9・12記)

曲中に謡う「陸奥の千賀の塩釜」は今の塩釜市で、都人にとってはあこがれの地であった。陸奥一之宮といわれる塩釜神社は202段の石段を登る高台にあり、塩釜の浦を一望できる。今は高い建物や起重機などに邪魔されているが、往時は籬が島もすぐ下に見える素晴らしい眺めであったことであろう。
社殿は華麗を極めたもので伊達政宗により再建されたといい、また、本曲と直接の関係はないが、本殿右手にある「文治灯篭」は「錦戸」のシテ和泉三郎忠衡が奉献したものという。

塩釜神社 塩釜神社 塩竈市 (平7.6)

御釜神社  塩釜市本町 (平成9・12記)

塩釜神社の末社である御釜神社は、製塩法を教えたという塩土老翁を祭神として祀る。その頃の塩を煮た御神釜が4個あり満々と汐水を湛えている。旱天の時でも年中満々と充ちているという。残念ながら撮影できなかった。また、境内には牛石・藤鞭社があり、その傍らにも釜が祀られていた。ここが塩釜の名の発祥の地とされている。

御釜神社の釜 御釜神社 塩竈市 (平2,6)

籬が島  塩釜市本町 (平成9・12記)

曲中に謡われる籬が島は港の出口付近に位置する小さい島である。古今集に
    わが背子を都にやりて塩釜の 籬が島のまつぞ恋しき
と詠まれた歌枕として有名な島。

まがきが島 籬が島 塩竈市 (平2.6)

文知摺石 福島市山口寺前 安洞禅院 (平成9・12記)

ここには融と虎女にまつわる伝説が伝えられ、二人の墓も造られている。今ではとても鏡となったとは思えない文知摺石が石柱に囲まれて保存されている。をの傍らの案内板にはその伝説が要領よくまとめられているので紹介する。
「   石の伝説
遠い昔の貞観年中(九世紀なかばすぎ)のことです。陸奥国按察使、源融公が、おしのびでこのあたりまでまいりました。夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますと、この里(山口村)の長者が通りかかりました。
公は、出迎えた長者の女、虎女の美しさに思わず息をのみました。虎女もまた、公の高貴さに心をうばわれました。
こうして二人の情愛は深まり、公の滞留は一月余りにもなりました。
やがて、公を迎える使いが都からやってきました。公は始めてその身分をあかし、また会う日を約して去りました。
再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「もぢずり観音」に百日詣りの願をかけ、満願の日となりましたが、都からは何の便りもありません。
嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、「もぢずり石」の面に、慕わしい公の面影が彷彿とうかんで見えました。なつかしさのあまり虎女がかけよりますと、それは一瞬にしてかきうせてしまいました。
虎女は、遂に病いの床についてしまいました。
   みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえに みだれそめにし我ならなくに
                         (河原左大臣 源融)
公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。
もぢずり石を、一名「鏡石」といわれるのは、このためだと伝えられています。
   信夫文知摺保勝会   」

近くには、源融のこの歌の歌碑、松尾芭蕉の像や、芭蕉の
  早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
の句碑、正岡子規の
  涼しさの 昔をかたれ しのぶずり
の句碑など多くの碑が立ち並んでいる。

信夫文知摺 文知摺石 福島市 (平5.5)

さらに、融と虎女の真新しい墓が建てられているのには驚いた。歿後千年以上を経てようやく同じ所に眠ることの出来た二人はさぞ喜んでいることであろう。墓誌には次のように記されている。
「 三十三年に一度奉修の御開扉大法会を記念し、京都嵯峨清涼寺より河原左大臣正一位源融公の御分骨をお迎え申し上げ、併せ境外の虎女の墓を改葬移転し、茲に両霊の石塔を建立す。奇しくも虎女歿後三十三回目の御開扉法会に正当す。観音妙智の威神力と十方有縁の極信心に依り、虎女一千百年の悲願茲に円成す。只願くは両霊の安からんことを。南無大慈大悲聖観世音菩薩。
      維持昭和五十八年四月十七日 
        文知摺観音別当香沢山安洞院  十六世現住沙門俊邦 謹識 」

融・虎の墓 融、虎女の墓 向って右が融、左が虎女の墓である (平5.5)


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