竹神社

謡蹟めぐり  絵馬 えま

ストーリー

年も暮の頃、左大臣公能は宝物供御の勅使として伊勢神宮へ詣で、斎宮に参拝します。夜になると絵馬を掛けると聞いたので、その有様を見ようと待ちます。
夜半過ぎになって老夫婦が現れ、掛ける絵馬の毛色によって明年の晴雨を占うと言い、老姥は雨露の恵みを受けるように黒の絵馬をかけて国を豊かにすると言い、老翁は自分が白の絵馬を掛けて、日を照らして民を喜ばせようと言って互いに競い合います。結局一つだけ掛ける習いである絵馬を、今年は始めて二つ掛けて雨も降らし日も照らすことにします。やがて二人は、伊勢神宮の二神の仮の姿であると告げ、夜明けを待てと言って夜の闇に姿を消します。
月読の明神(月)が出ると間もなく、天照大神が天鈿女命と手力雄命を従えて現れ、神舞を舞ったあと、岩戸隠れの故事を目のあたりに再現してみせます。(「宝生の能」平成11年12月号より)

斎宮址・竹神社  三重県明和町  (平13・3記)

本曲の舞台は伊勢の斎宮で近鉄山田線の斎宮駅北側一帯のあたりである。斎宮は天皇の代理に伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王(斎王)と、そのお世話をする人々が暮らしていたところ。飛鳥時代から南北朝時代までおよそ600年間置かれた。東西2キロ、南北0.7キロのの約140ヘクタールが国史跡に指定され、今なお発掘調査が続いている。
斎王の森は昭和33年までは旧斎宮村の村有地であったが、以後伊勢神宮に寄付され、現在では神宮司庁により管理されている由。森に近づくと鳥居と「史跡斎王宮阯」の碑が目に入る。

鳥居を潜ると森の中は史跡公園としてすっかり整備されていた。鳥居のすぐ後ろには昭和43年に明治維新100年を記念し北白川房子神宮祭主の御染筆を碑文をしたという「斎王宮阯」碑が新しく造られており、また史跡調査で発見された平安時代前半の掘立柱建物跡や井戸跡、道路跡などが復元整備されている。

斎王の森 斎王の森 現在史跡公園として整備されている 三重県明和町 (平13.2)

史蹟斎王宮址の碑 史跡斎王宮阯の碑 森の灌木の中に建っている 斎王の森 (平13.2)

斎王宮跡碑 斎王宮阯碑 比較的新しいもので鳥居の後ろに建つ 斎王の森 (平13.2)

大伯皇女(おほくのひめみこ)の歌碑も建てられていた。説明板には次のように記されている。
「 この歌碑の歌は、今から凡そ千三百年の昔、朱鳥元年(686)持統天皇の御即位後間もない或る日、天武天皇第一皇子の大津皇子が伊勢の神宮へひそかに下られ、斎王としてこの地にいられた姉君の大伯皇女を尋ねられて、朝早くお別れになる時に、皇女が弟の行く末を深く案じてお作りになった歌で、万葉集巻の二に収められている。皇位継承の複雑な問題があり、皇子は帰京後間もなく謀反の罪をきせられ自害されたのである。皇女の真情を汲み、歌碑は葛城の二上山の墓所の方角に向けて建立した。書は、三重県出身の歌人で國学院大学名誉教授の岡野弘彦先生の染筆である。
  平成五年九月 明和町文化協会 」
碑に刻まれた歌は
   わがせこを 大和へやると さ夜ふけて あかとき露に わがたちぬれし
というものである。学生時代に習った万葉の歌に思いがけぬ所でめぐりあい、大伯皇女がここで弟の大津皇子を案じて作った歌かと新たな感慨に覚えた次第である。

大伯皇女の歌碑 大伯皇女(おほくのひめみこ)の歌碑 弟の身を案じて詠んだ万葉の歌が刻まれている 斎王の森 (平13.2)

斎宮駅のそばには「いつきのみや歴史体験館」という立派な建物が建てられていた。平安の昔そのままの年中行事を再現、体験し、その時代の歴史と文化を肌で感ずることが出来る施設である。駅から800メートルほど離れた所には斎宮歴史博物館もあって斎宮の姿を紹介している。また、このあたり一帯を「斎宮跡歴史ロマン再生」として、平成14年3月完成を目標として往時の斎宮を十分の一の大きさにして復元しようとする工事が進行している。完成したらもう一度訪ねてみたいものである。

歴史体験館 いつきのみや歴史体験館 最近建てられた 三重県明和町 (平13.2)

歴史ロマン再生 斎宮跡歴史ロマン再生 このあたりに十分の一の斎宮が再現される予定 三重県明和町 (平13.2)

斎宮駅の南を少し歩いた所に竹神社がある。ここに立てられている駒札には次のように記されている。
『 「伊勢参宮名所図会」に毎年大晦日に伊勢の斎宮で絵馬をかける行事が載っているが、黒絵馬は雨を、白馬は日照りの占方を示すという。謡曲「絵馬」はこの行事を節分の夜とし、老翁と姥が人民快楽のため二つの絵馬をかけ並べ、国土安穏を祈るというものである。もとの参宮道のこの辻に絵馬堂があり、「絵馬川」という小川に「絵馬橋」もかかっていた。絵馬堂は明治の終りごろ廃され、その折斎宮の加藤氏に譲られたが、終戦直後腐朽のため堂が焼却された。絵馬は佐々木氏が譲り受け、大正のはじめ竹神社に寄贈したもので、現在竹神社の神宝となっている。かっての行事を伝える貴重な絵馬といえる。 』

竹神社 竹神社 絵馬の一枚が神宝として保存されている 三重県明和町 (平13.2)

天照大神、月読命、伊弉諾・伊弉冉尊  (平13・3記)

曲中に天照大神、月読明神(月読命)が登場し、その両親である伊弉諾・伊弉冉尊は本曲には出てこないが、他の曲に引用される謡曲上の人物である。また高天の原や天の岩戸の名も出てくるので、これらに関する神話の概略とその史跡を調べてみた。

伊弉諾・伊弉冉尊

神話によると大昔、天地がいまだ分かれず、陰陽が分かれなかったころ、世界は渾沌としていた。しかし、澄んだ気が天となり、重く濁った気が地となり、天と地の二つになったとき神々が生まれた。国常立尊(くにとこたちのみこと)から伊弉諾・伊弉冉尊に至るまでを神代七代という。
伊弉諾・伊弉冉尊が天の浮橋に立って、国常立尊から賜った天(あま)の沼矛(ぬほこ)を海中におろしてかきならして引き上げると、矛先からしたたりおちる塩が重なり積もって島となった。これがおのころ島(淡路島)である。二神はこの島に降り立たれ次々と大和、四国、九州その他の日本国土を造られた。
天の浮橋は伊弉諾尊が天に通う梯子として作ったものといわれ、淡路島の三原町には天の浮橋の碑が残っており、日本三景の一つ天の橋立も天の浮橋といわれ、これは尊が寝ている間に海中に倒れて島になったものという。

天浮橋 天の浮橋 民家の庭に碑が立つのみ 兵庫県三原町 (平12.9)

天橋立 天の橋立 天の浮橋が海中に倒れたものという 宮津市 (平6.11)

二神は国を生みおわってから、家屋の神々、海や河の神々、風や木の神々などつぎつぎに生んだ。そして最後に火の神を生むと、伊弉冉尊は陰部を焼かれて死んでしまった。
男神の伊弉諾尊は嘆き悲しみ、女神のなきがらを、(古事記では)出雲と伯耆の国境の比婆山に、(日本書紀では)紀伊国の熊野の有馬村に葬った。
比婆山周辺の島根県、鳥取県には伊弉冉尊の稜、尊を祀る神社、石碑等が沢山あるようだが、松江市に近い八雲村日吉にある伊弉冉尊稜は、宮内庁の管理となっており、村の教育委員会の説明では、古事記にある比婆山ほこの地で、伊耶那美命の御神稜と伝えられており、明治23年、宮内省が全国十数ヶ所の御神稜伝説地中、保存すべきものと認定し、陵墓参考地として管理している由。
一方紀伊の国有馬村に対応するものとして、和歌山県熊野市有馬に花の窟神社がある。日本最古のの神社として巨岩を神体としている。神社の説明には「日本書紀によると尊はこの地に葬られた。土地の人々は花が咲く季節に花を飾り、のぼりや旗を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い踊って祭をなすところから花の窟神社の名がついた」旨しるしている。

伊弉冉尊御陵 伊弉冉尊稜 宮内庁所管 全国十数カ所の伝説地中保存すべきものと認定された 島根県八雲村日吉 (平9.9)

花の窟神社1

花の窟神社2 花の窟神社 伊弉冉尊を祀る 巨岩が神体 熊野市有馬 (平9.9)

伊弉諾尊は妻の死を悲しみ、黄泉の国を訪れたがすでに伊弉冉尊の身体には膿みが流れ、うじが湧いていた。驚いて逃げると伊弉冉尊は追いかけてきた。冥界の鬼女を遣わして追いかけさせた。

漸く逃れた伊弉諾尊は穢れを払うため筑紫日向の川の落ち口の、橘の檍が原で禊ぎはらいをされた。この時左の目を洗った時に生まれたのが天照大神、右の目を洗った時ひ生まれたのが月読尊、鼻を洗った時に生まれたのが素戔嗚尊で、それぞれに高天が原、夜の国、海原を治めさせた。

伊弉諾・伊弉冉尊を祀る神社は沢山あるようだが、私が参詣したものを掲げる。二神が最初に造られたという淡路島の三原町にはおのころ神社がある。この神社はおのころ島と伝えられる丘の上にあり、日本三大鳥居といわれ22メートルほどの大鳥居が目を引く。境内にはセキレイ石があるが、神話によると、つがいのセキレイがこの石にとまり、頭と尾をふり二神に交(とつぎ)の道を教えたと伝えられる。

おのころ神社 おのころ神社 二神により最初に造られた地に建つ神社 淡路島三原町 (平12.9)

せきれい石 セキレイ石 セキレイが二神に交の道を教えたという おのころ神社 (平12.9)

同じく淡路島の一宮町には尊と同じ名の伊弉諾神宮がある。二神がこの地で余生を過ごされたと伝え、その御住居跡に御陵が営まれ、神社が創始されたのがこの神宮の起源という。境内には夫婦大楠があり、元は二株の木が生長するにつれて合体し、一株に育ったという珍しい木である。
三原町には伊弉諾神宮の一の宮に対し淡路国二の宮といわれる大和大国魂神社がある。他流の「淡路」という曲によると、二の宮とは二柱の神の意で、二柱の神とは伊弉冉・伊弉冉尊の神であるという。

いざなぎ神宮 伊弉諾神宮 二神が余生を送った所という 淡路島一宮町 (平12.9)

夫婦大楠 夫婦大楠 二株の木が生長し合体した 伊弉諾神宮 (平12.9)

大和大国魂神社 大和大国魂神社 淡路国二の宮である 淡路島三原町 (平12.9)

松江市大庭には神魂(かもす)神社がある。社殿は床が高く、木が太く大社造りの古式に則っているとされ、最古の大社造りとして国宝に指定されている。
その他熱海市多賀の多賀神社、下多賀神社、筑波山麓の筑波山神社、北陸の白山比め神社、足摺岬の白皇神社などが挙げられる。

神魂神社 神魂神社 松江市大庭 (平9.9)

多賀神社 多賀神社 熱海市多賀 (平8.8)

下多賀神社 下多賀神社 熱海市多賀 (平8.8)

筑波山神社 筑波山神社 茨城県筑波町 (昭60.9)

白山比盗_社 白山比盗_社 石川県鶴来町 (平9.11)

白皇神社 白皇神社 高知県足摺岬 (平9.4)

高天ヶ原・天の岩戸

前述のとおり、天照大神は高天が原を弟の素戔嗚尊が海原を統治することとなるが、素戔嗚尊は性凶暴でたびたび乱暴を働くので、天照大神は天の岩戸に隠れてしまった。世の中は暗闇となったので、大勢の神様が天の安河原に集まって対策を協議した結果、天鈿尊(あめのうずめのみこと)に神楽舞を舞わせ音曲を奏でた。大神が興味をもって岩戸を少し開いたところを、手力雄尊がこれを引き開き世の中は再び明るくなった。

奈良県金剛山の中腹、御所市高天にある高天彦神社のあたりは高天が原といわれ、社前に高天原旧跡地の碑が建っている。
京都府大江町の元伊勢神宮にも天岩戸神社があり、天岩戸碑もある。
奈良県天香具山の麓には天岩戸神社があり、以前は岩戸の前での神楽はこの神社で取れる笹を用いたという。
宮崎県高千穂峡にも天岩戸神社や天岩戸、高千穂神社があるようだがまだ訪ねていない。
手力雄尊が天の岩戸を開いた時力余って岩戸の一部は空中高く舞い上がり、それが落下して信濃の国の戸隠山になったという。

高天彦神社 高天彦神社 このあたりが高天ヶ原だったという 奈良県御所市高天 (平8.9)

高天原旧蹟地碑 高天原旧跡地碑 高天彦神社に建つ (平8.9)

天岩戸神社 天岩戸神社 崖に建つ 京都府大江町 (平5.9)

天岩戸碑 天岩戸碑 天岩戸神社付近 (平5.9)

天岩戸神社奈良 天岩戸神社 天香具山あたりも高天原だったろうか 奈良県明日香村(平8.9)

戸隠連峰 戸隠山 長野県戸隠村より望む (平6.10)

天照大神、伊勢神宮

伊勢神宮内宮は天照大神を祀るが、皇大神宮の起源は更に古く、宮中に祀られていた神鏡を、崇神天皇の御代に皇女豊鍬(とよすき)入姫に大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせたのが始めで、姫は大神に奉仕し、これが斎宮の始まりという。
奈良県の三輪明神の裏の檜原が笠縫宮邑ともいわれ、ここにある檜原神社は元伊勢と呼ばれる。大江山の舞台である京都府大江町にも元伊勢内宮、元伊勢外宮、五十鈴川もあり、前述のように天岩戸神社や天岩戸もある。
垂仁天皇の皇女倭姫が三種の神器の一つである神鏡を奉じて諸国を廻り、鎮座するところを探していたが、伊勢の国に入り二見が浦から五十鈴川に沿って上り、現在の地に宮居を定めたという。
内宮から少し離れているが伊勢市に皇大神宮別宮として倭姫を祀る倭姫宮があり、山一つ隔てて倭姫の御陵もある。

伊勢内宮 伊勢神宮内宮 天照大神を祀る 伊勢市 (平13.2)

檜原神社 檜原神社 元伊勢とも呼ばれる 奈良県桜井市檜原 (平8.9)

元伊勢内宮 元伊勢内宮 大江山にも元伊勢がある 京都府大江町 (平5.9)

五十鈴川 五十鈴川 御裳濯川ともいう。倭姫はこの川の上流に宮居を定めた 伊勢市 (平13.2)

倭姫宮 倭姫宮 倭姫を祀る 伊勢市倭町 (平13.2)

倭姫御陵 倭姫御陵 宮内庁の宇治山田陵墓参考地となっている 伊勢市倭町 (平13.2)

月読尊 月夜見宮 月読宮

曲中に謡われる月読の明神は伊弉諾・伊弉冉尊の御子で天照大神の弟神、夜の国を統治した神様である。日本書記ではその光彩は天照大神に次ぐものと称えている。月読尊を祀る神社として伊勢市に皇大神宮別宮として月夜見宮と月読宮がある。月読宮には月読尊のほか伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮があり、それぞれ伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀っている。

月夜見宮 月夜見宮 月読尊を祀る 伊勢市宮後 (平13.2)

月詠宮 月読宮 月読尊ほか伊弉諾・伊弉冉尊を祀る 伊勢市中村町 (平13.2)

淳仁天皇 (平13・3記)

ワキの大炊の帝の勅使である。大炊の帝は淳仁天皇のことで、道鏡を親任した孝謙上皇のために退位させられ、淡路島に流された悲劇の天皇である。淡路島の南淡町賀集に淳仁天皇陵がある。

淳仁天皇御陵 淳仁天皇御陵 淡路島に流された天皇の御陵 淡路島南淡町賀集 (平12.9)

僧正遍正 (平13・3記)

クセ冒頭に謡われる僧正遍正は百人一首の「天つ風雲の通い路吹きとじよ、乙女の姿しばしとどめん」で広く知られた僧。桓武天皇の孫にあたり、仁明天皇の蔵人頭として仕えた。天皇の死去とともに出家、花山の元慶寺の座主となり、後年雲林院の別当も兼ねた。元慶寺の近くにその墓もあるという。ここには元慶寺の写真のみを掲げる。

元慶寺 元慶寺 僧正遍正が出家後座主となった寺 京都市山科区花山 (昭58.9)


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.