三熊野の山伏、松島平泉への道すがら上野国佐野の里に着いた。すると、男女二人の者が現れ、橋建立の勧進に入れと勧める。
この橋はいつ頃から出来たのかときくと、万葉集の「東路の佐野の船橋とりはなし」の歌を引いて答えた。山伏はこの万葉集の歌の「とりはなし」は「取り放し」と「鳥は無し」と二説あるが、どれが本当であるかときくと、そねにつき物語があるといって、この里の男この橋を渡って女のもとに通っていたのを、親が嫌って、橋の板を取り放しておいたのを、男は知らずに渡って川に落ち死んでしまった。その妄執で地獄の氷にとぢこめまれ、浮かむすべもない。後世を弔って給われといい、消え失せる。
山伏が加持祈祷していると、さきの女と、男の亡霊が現れ、男は女のもとに通い、橋の板間から川へ落ちた有様を学んで見せ、「東路の佐野の船橋」の歌に詠まれたのであったが、山伏の法力によって、成仏したことを喜び消え失せる。(宝生流旅の友より)
高崎市上佐野町の街道沿いに「佐野の船橋の歌碑」がある。歌碑の前にある説明には次のように記されている。
「 高崎市指定重要文化財
佐野の船橋歌碑(上佐野町)指定 昭和四十七年五月十八日
かみつけの佐野の船はしとりはなし
親はさくれどわハさかるかへ
ここは佐野窪への降り口にあたり、碑面上には「松木観音」、下の円光には馬頭観音像が陰刻されている。万葉集十四東歌上野国の歌の一首で「船木観音の碑」とも「船橋歌碑」とも言われている。
碑陰には、「古道佐野渡」「文政丁亥孟冬延養寺良翁識」とあり、文政十年(一八二七年)初冬(十月)に、書家であり文学僧であった新町の延養寺住職良翁が書いたことがわかる。供養のため、また道しるべとして建てられたものである。
高崎教育委員会 」
これによると「鉢木」に出てくる「佐野の渡し」も此処にあったようである。歌碑の右にある大きな碑には「佐野橋竣工記念碑」と刻まれている。近くには烏川が流れている。往事、このあたりに渡しがあり、時頼と常世がここで逢って「鉢木」の物語となり、次いで橋が架けられて「船橋」の物語が生まれたのであろう。橋といっても簡単に橋板をとりはずせたのだから粗末な橋だったことであろう。新しい橋が出来るまでは木造で昔の面影を留めていたようであるが、現在は鉄骨の橋脚になっている。それでも通路は木製になっているのは嬉しい限りである。
佐野の船橋歌碑付近 高崎市上佐野町 (平7.3) 左側の碑が歌碑、右側の大きい碑は佐野橋竣工記念碑
佐野の船橋歌碑 (平7.3)
烏川と佐野の船橋 高崎市 (平7.3)
曲中の地名で、琵琶湖の東岸に注ぐ。
野洲川 滋賀県野洲町 (平6.9)