弓流し

謡蹟めぐり  八島 やしま

ストーリー

都の僧が西国行脚の途中四国の八島の浦へやって来ます。日暮れ頃、釣竿を肩にした老翁と若い漁夫が通りかかったので、僧が一夜の宿を乞うと老翁は家が粗末なのでと断りますが、僧が都の者と知るとたいそう懐かしがり、中へ入れます。
老翁は旅僧の求めに応じて八島での源平合戦の模様を物語ります。その話があまりに詳しいので僧が老人の素姓を問うと、老人は暗に義経の化身である事をほのめかして消え失せます。
やがて夜となり、僧の夢中に鎧姿の義経の亡霊が現れます。生死の海に漂う義経の魂は今また修羅道の合戦の有様をつぶさに再現します。弓を海に取り落し辛くも之を拾った事や兼房に対して弓を惜しむのではなく名を惜しむのだと答えた事など語りますが、夜明けと共にその姿は消え失せ、八島の浜辺はうららかに晴れわたり波がたゆたうばかりです。(「宝生の能」平11.5月号より)

屋島  高松市屋島  (平5・3記)

屋島には二回ほど訪ねた。最初は昭和59年3月、定年記念旅行で家族と一緒に、二回目は教授嘱託会の謡曲名所めぐりで平成2年5月に謡友と一緒である。
およそ800年の昔、義経の弓流しや、那須の与一の扇の的、三保の谷と景清との一騎打、さらには能登守教経の矢先にかかって討ち死した義経の家来佐藤継信など、数々の思い出を秘めた源平合戦の古戦場の跡である。当時は文字どおり島だったといわれるこの地も、山上から眺めると埋め立てが進み人家が多く建ち並んでいて、ここで大合戦が行われたとは到底思えない。
それでも案内人の巧みな話術に引き込まれて、それぞれの戦の場面を思い浮かべつつ屋島古戦場を眺め、勝った源氏の勇士が血刀や槍を洗ったという「血の池」を訪ね、屋島寺に参詣する。「ここ屋島の古戦場は『檀の浦』、平家滅亡の下関のは『壇の浦』。同じダンでもキヘンとツチヘンの違い。これがほんまの『だんちがい』や」という案内人の解説が忘れられない。

屋島全景 屋島古戦場全景 香川県高松市屋島東町 (平6.9)

屋島寺 屋島寺 香川県高松市屋島東町 (平6.9)

血の池 血の池 屋島寺 (平6.9)

屋島の源平合戦と謡蹟   (平11・10記)

本曲では屋島の合戦のうち、「弓流し」「継信の最後」「三保の谷と景清の錏引き」のことが取り上げられているが、那須与一の「扇の的」は出てこない。しかし、間狂言には「那須語」という小書があり、与一の扇の的の話をする由である。那須与一も含め、これらの物語の概要と私が訪ねた関連する謡蹟を紹介することとしたい。

一ノ谷の合戦に敗れた平家軍はこの屋島に退き、ここを本拠として瀬戸内海の制海権を握り、源氏と対抗する体勢を整えた。平家の本営は屋島の東側に置かれた。現在安徳天皇社のあるあたりで、安徳天皇社は安徳天皇の行宮の跡と言われる。また入江の奥にある総門址は平家がこの門を南部の重鎮として大いに源氏郡を防ごうとしたところである。古い門が残され近くに立派な総門址碑も建っている。

安徳天皇社 安徳天皇社 高松市屋島東町 (平6.9)

総門址 総門址 香川県牟礼町惣門 (平6.9)

総門碑 総門址碑 香川県牟礼町惣門 (平6.9)

渡辺の浦(大阪市福島区福島)からわずか5艘、150騎ばかりで嵐をついて船出した義経の軍勢は阿波の勝浦(徳島南方の海岸)に上陸、平家軍の不意をつくため夜を徹して屋島へ向かった。
平家方はすわ源氏の大軍が押し寄せたと、汀につないだ船に乗り込み我先にと沖へ漕ぎ出した。しかし平家随一の勇猛な武将能登の守教経の一門は合戦を挑んできた。なかでも教経は弓の名手で、一矢で義経を射殺そうと狙ったが、その時矢面に進んだ佐藤嗣信(謡曲では継信)は義経の身代わりになって討死した。すかさず教経の郎党菊王丸がその首をとろうと駆けよると、継信の弟忠信が兄の首をとらせてなるかとばかり一矢で菊王丸を射倒してしまった。
継信の討死したところには射落畠の碑があり、近くには継信の葬儀を営んだという洲崎寺や継信の墓、継信の顕彰碑、菊王丸の墓もあるが、その写真は「摂待」の項に掲載したのでここでは省略する。

船と陸とに別れて激戦を続けるうちに、その日もようやく暮れはじめた。両軍ともに兵を引き、海上がひとしきり静かになった。その時、沖の軍船の中から一艘の小舟が進み出た。年の頃十八、九の女官が紅の扇に日の丸を描いた扇を掲げ、これを射てみよとさし招いている。ここで源氏の若武者、十七歳の那須与一が呼び出され、見事扇の的を射るのである。

当時は海であったこの地も今は陸地となっており、「祈り岩」「駒立岩」が残されている。

「祈り岩」は、那須与一が扇の的を射よと命ぜられた時、波は高く船は揺れ扇も落ちつかず揺れている。与一は「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現・宇都の宮・那須の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真中射させてたばせ給え、これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かうべからず。今一度、本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給うな」と祈った所という。
「駒立岩」は与一が祈り岩の所で神明に祈った後、このあたりまで駒を進め足場を定めた所という。与一はここで鏑をとってつがえ、引き絞ってひようと放つ。鏑矢は長い唸りを立ててあやまたず要から一寸ばかりのところをぶっつり断ち切り、扇はさっと空に舞い上がった。平家はふなばたを叩いて感じ、源氏は箙をたたいてどよめいたという。

いのり岩 祈り岩 香川県牟礼町牟礼 (平6.9)

駒立岩 駒立岩 香川県牟礼町牟礼 (平6.9)

この後、「三保の谷が着たりける、兜の錣を散りはづし・・」と「景清」に謡われる、平家方の景清と、源氏方の三保の谷との錣引きがこのあたりで行われた。二人は切り合うのではなく、景清は三保の谷の兜をつかもうとする。三度とりはずして、四度目にむずとつかんだとたん、錣が切れ、三保の谷は逃げのびた。やがて景清はその錣を長刀の先につけて、高くさしあげ、「遠からむ者は音にも聞け、近くば目にも見給え。これこそ京童の呼ぶなる上総の悪七兵衛景清よ」と名乗る。錣引跡の写真は「景清」の項に掲載した。

これを合図に「景清討たすな」と平家軍は攻め寄せる。そのとき義経はどうしたことか弓を海中に取り落とした。義経は馬上でうつ伏せになり、鞭でかきよせるがなかなか拾えない。皆が止めたが耳を貸さずようやく取り上げた。本曲の「弓流し」の場面である。この弓流しの場所も陸地となって「義経弓流シ」の碑が建っている。

弓流し 義経弓流シ碑 香川県牟礼町牟礼 (平6.9)

話は前後するが、堺市には踞尾八幡神社があり、神社の由緒によると、義経が屋島に向かう折、暴風に遭い主従当地に避難し、当神社に祈願したと記されている。

つくお神社 踞尾八幡神社 堺市津久野町 (平10.3)

那須与一の墓、那須神社、那須温泉神社(栃木県) (平5・3記)

那須与一の墓は大田原市佐久山福原の玄性寺にある。与一だけでなく那須一族の立派な墓があり、この辺一帯は「与一の里」として地元の人に愛されているようである。
那須神社はやはり大田原市の南金丸にあり、「金丸八幡」ともいわれている。那須与一が扇の的を射んとした時、「八幡大菩薩」と祈ったのはこの金丸八幡のことであるという。近くには「殺生石」関連の「玉藻稲荷神社」がある。
那須町の「殺生石」のすぐ傍にある那須温泉神社も与一祈願の神社である。

与一の墓 与一の墓 栃木県大田原市 玄性寺 (平4.7)

那須神社 那須神社(金丸八幡) 栃木県大田原市 (平4.7)

那須温泉神社 那須温泉神社 栃木県那須町 (平4.7)

即定院、那須与一の墓 京都府東山区 泉湧寺内  (平11・10)

与一は義経の命により出陣の途中、都まで来た時にわかに病にかかり難儀したが、この即定院に参籠して平癒した。源平の戦いのあと武道を捨てて入道し、ここに小さな庵を結び朝暮信心怠らなかったが、その後病を得て逝去したという。巨大な与一の墓が安置されている。

即定院 即定院 京都市東山区 泉湧寺内 (平5.11)

与一墓即定院 与一の墓 即定院内 (平5.11)


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