頼朝旗挙げの碑

謡蹟めぐり  七騎落2 北条政子との恋 挙兵前の動静

北条政子との恋    (平8・4記)

八重姫に続く頼朝の恋愛の相手は、やはり伊豆在庁北条時政の娘政子で、その後の彼の生涯に大きな影響を及ぼすこととなる。
静岡県韮山町から伊豆長岡町一帯にかけて当時北条氏の本拠があったようで、韮山町には政子産湯の井がある。近くの願成就院の梛の木の木蔭で政子は頼朝を待っていたという。この願成就院には政子の父時政の墓がある。また狩野川一つ隔てた対岸、伊豆長岡町にはその名も北条寺という寺があり北条氏発祥の地とされる。寺には時政の次子義時夫妻の墓がある。

政子産湯の井 政子産湯の井 静岡県韮山町 (平6.12)

願成就院 願成就院 静岡県韮山町 (平6.12)

願成就院のなぎ 願成就院境内の梛(なぎ)の木  (平6.12)

北条時政の墓 北条時政の墓  願成就院 (平6.12)

北条寺 北条寺 静岡県伊豆長岡町南江間 (平6.12)

北条義時夫妻の墓 北条義時夫妻の墓 北条寺 (平6.12)

伊豆山神社、境内の梛の木、頼朝政子腰掛け石 熱海市 伊豆山神社

熱海市伊豆山にある伊豆山神社も頼朝・政子の逢い引きの場所として伝えられ、願成就院と同様に梛の木がある。
梛の木の傍らの立て札にはおよそ次のようなことが記されている。

「        霊符  梛の葉守り由来
伊豆山神社は古来縁結びの神として名高く、役の行者が1400年の昔この伊豆権現に参詣の際、神木梛の樹上に大神の御影を拝し
    なぎの葉は千代に三千代を重ねつつ 夫婦妹背の道はかわらず
と歌われたと伝える。
江戸中期に出版の「本朝俗諺志」に、伊豆権現の神木梛の木凡そ三回り、高さ十丈ばかり、葉厚く縦に筋あり。この葉を所持すれば災難をのがれると守り袋に納む。また女人鏡に敷けばすなわち夫婦の仲むつまじきなり。この木他国に稀なり。と記されている。
また徳川時代の小唄集にも
    こんどござらば持てきてたもれ 伊豆のお山のなぎの葉を
の歌詞を載せている。
源頼朝公も若き日に当社に源家再興を祈願し夫人政子との変わらぬ愛の証しに神木なぎの葉をお互いの胸に分かち持ったという。  」

伊豆山神社の境内にはまた頼朝政子腰掛け石という二人掛けの安楽椅子によく似た岩がある。二人はここに腰掛けて将来のことを話しあったことであろう。
山岡荘八の「源頼朝」によると、頼朝は蛭が小島に滞在中ひそかにこの伊豆権現に参籠すると見せかけ、覚淵阿闍梨から学問を教わり、箱根権現で武芸を磨いたという。
政子の父時政は一応頼朝との結婚に反対して伊豆の目代山木判官に政子と嫁がせることに決めたが、その婚礼の夜政子は逃れ出て韮山から駆けつけた頼朝に身を任せる。かくして政子は頼朝の正妻となり、二人の間には大姫とよばれる長女も誕生した。

伊豆山神社 伊豆山神社 熱海市 (平5.10)

伊豆山神社なぎの木 境内の梛の木 伊豆山神社 (平5.10)

腰掛け石 頼朝政子腰掛け石 伊豆山神社 (平5.10)

頼朝挙兵前の動静  (平8・4記)

政子との結婚により頼朝は伊豆の北条の舘で平穏な毎日を送ることになった。しかし時の流れ、四囲の情勢は何時までもこの状況を続けることを許さなかった。
頼朝の舘に出入りする人々も土肥実平・工藤茂光ら伊豆・相模の武士たちが加わり、関東の大豪族千葉氏や三浦氏の一族の若者たちの顔も見えることもあった。さらに文覚上人の説得、叔父新宮十郎行家の以仁王令旨持参などもあって、彼が好むと好まざるとにかかわらず、亡き義朝の子としての頼朝の身辺にはようやく危険が迫り、挙兵を決意せざるを得ない羽目に追い込まれて行った。
頼朝はこの時期伊豆各地の神社を参詣しているようである。箱根神社、前記の伊豆山神社、三島神社、間眠神社、白浜神社等々。おそらく胸中期するところの大願成就を祈念したことであろう。三島大社には頼朝旗上げの碑があり、碑面には次のように刻まれている。

「     源頼朝旗挙げの碑
治承四年八月十六日 源頼朝は北条時政を招き旗挙げの相談をし 「先づ八牧判官兼隆を夜討ちにすべし 急ぎ相計へ」 時政「但し今夜は三島社御神事にて 国中には弓矢とる事候はず」(源平盛衰記)との意見を入れ 十七日夜討と決定した。十七日藤九郎盛長を奉弊使として戦捷を祈請し(東鑑)旗挙げに成功したのである。
二日後すなわて八月十九日○○○○神領帰心の丁文を寄せた 現在この丁文は宝物として社蔵されている
        三島大社宮司  原勝治 撰  」
三島大社にも伊豆山神社と同じく、頼政政子腰掛け石があるとのことだが、残念ながら見逃してしまった。

三島大社 三島大社 三島市大宮町 (平7.3)

頼朝旗挙げの碑 源頼朝旗挙げの碑 三島大社 (平9.2)

間眠神社 間眠神社 三島市二日町 (平7.3)

白浜神社 白浜神社 下田市白浜 (平6.12)

文覚上人流寓の跡、護摩石、夫婦石 静岡県韮山町奈古谷 毘沙門堂
文覚上人屋敷跡の碑 鎌倉市雪ノ下

文覚上人も流人の一人でこの地に流されていた。もとは武士、渡辺党の一族だったが恋する人妻袈裟御前を誤ってわが手にかけてしまい、無常を感じて出家した。京都神護寺の再興運動の最中、後白河法皇の御所にまぎれこみ、寄付を強要して悪口雑言を吐いたかどで伊豆に流された。韮山町の毘沙門堂がその跡といわれる。
碑に曰く、
「 文覚上人、承安4年(1174)伊豆国奈古谷村に配流、居寓6歳、その間、東奔西走、専ら源家再興斡旋に努めた。治承4年8月、源頼朝公の挙兵は実に上人の勧説による所と、平家物語は叙している。
即ちこの地が「上人籠居」の跡である。後、頼朝公、神仏家祖報恩のため、上人に布施して毘沙門堂一宇を建立、源家の万福を祈った。春風秋雨八百年、茲に往時を追思しつつ略史を彫み建碑の所以とする。 」

境内には護摩石があり、その由来によると文覚上人が源家の再興を祈願して護摩を焚いた石で、別名硯石、鏡石とも言われている由。
また、毘沙門堂に至る途中に「夫婦石」がある。説明によると、往古治承年間、源頼朝、政子が毘沙門堂に源家再興を祈願する途次腰掛けた石と伝えられ、別名腰掛け石とも呼ばれているとのことである。
文覚上人は後に鎌倉に移ったが、鶴岡八幡宮にほど近い雪ノ下に「文覚上人屋敷跡」の碑が建っている。

文覚上人流寓の跡 文覚上人流寓の跡 静岡県韮山町奈古谷 毘沙門堂 (平7.4)

護摩石 護摩石 毘沙門堂 (平7.4)

夫婦石 夫婦石 毘沙門堂 (平7.4)

文覚上人屋敷跡碑 文覚上人屋敷跡の碑 鎌倉市雪ノ下 (平6.12)

源頼朝公鷹狩りの像、葛城山よりの眺望 静岡県伊豆長岡町 葛城山

伊豆長岡町に葛城山という山があるが、現在はロープウエイで簡単に登ることが出来る。ここで思いがけなく頼朝公の鷹狩りの像を発見した。説明は見当たらなかったがおそらく頼朝もこのあたりの山野をくまなく走り廻り、身体を鍛え武術を練っていたことであろう。
山頂から見る下界の眺めは素晴らしく、正面の町並みは伊豆長岡町、韮山は左手の小山の向側にあたる。頼朝はこのあたりで多感な青春の日々を、複雑な思いをもって過ごしたのかと思うと感慨もまたひとしおである。

頼朝鷹狩り像 源頼朝公鷹狩りの像 静岡県伊豆長岡町 葛城山 (平7.4)

葛城山よりの眺望 葛城山よりの眺望 静岡県伊豆長岡町 (平7.4)


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