野浦海岸

謡蹟めぐり  檀風 だんぷう

ストーリー

壬生の大納言資朝の卿は元弘の合戦において味方の敗戦となり、捕らえられて佐渡に流罪の身となって、本間三郎のもとに預けられていたが、鎌倉からの沙汰で既に誅せられるばかりであった。都に残されていた一子梅若は今熊野の帥(そつ)阿闍梨に伴われてはるばる父を訪ねてきた。本間もおさない者がわざわざ訪ねてきたことゆえ、このことを資朝の卿に知らせると資朝は、自分に子という者はないと一旦は会わずに追い返したが、最後の時に名乗りあい遂に誅せられた。
梅若は父の敵は太刀を取った本間であると恨み、その夜本間の寝所に忍びこんで本間を討ち果たした。かくして阿闍梨と梅若とは港まで逃げのびてきたが、折しも舟がなく、ただわずかに今出帆したばかりの一艘を見つけたので、阿闍梨は法力をもって舟を呼び戻すべく祈ったのである。すると三熊野の神も仏も感応あって、にわかに風が変わって舟は岸辺へ吹き戻され、二人は難を逃れて舟に乗り移ると、再び風は順風となってわずかの間に若狭の浜へ着き、のがれてことなく都へ帰ることを得た。(謡本より)

日野資朝配流の背景など (平9・5記)

謡曲では「元弘の合戦」に負けて日野資朝は佐渡へ流されたとしているが、実際は7年前の正中の変で捕らわれ、佐渡に流されている。歴史書、太平記などをすこし調べてみた。

正中の変(1324)・・日野資朝は後醍醐天皇の側近として、天皇の討幕の意図を体し日野俊基ほかの廷臣たちとひそかに北条氏討滅の計画を練っていた。しかし密告する者があって計画は露見、天皇は無関係であるという弁解が通って無事であったが、資朝は罪を一身に引き受けて佐渡に配流された。

元弘の乱(1331)・・後醍醐天皇はその後も北条家覆滅を図っていたが今回も計画が露見し、日野俊基はその主謀者ということで鎌倉に送られ死罪となった。俊基が鎌倉へ送られるときの有様を太平記には「落花の雪に踏み迷ふ、交野(かたの)の春の桜狩り」ではじまる有名な「俊基朝臣東下りの道行文」で綴っている。このことがあって、佐渡に流されていた資朝も同罪ということで処刑されたのである。
この時も幕府は天皇を逮捕する動きをみせなかったが、3カ月あまりを経て、天皇は突如皇居を脱出して笠置寺に入り、その天険と僧兵をたのんで挙兵に踏み切ったのである。北条方は大軍をもって包囲してこれを破り、天皇は隠岐の島に流される結果となった。

佐渡における資朝と阿新丸のことは太平記に「巻二 阿新丸の事」として詳しく書かれている。謡本では資朝は自分には子はいないと云って一旦は阿新丸に会わないで追い返したものの、最後の時には名乗りあっているが、太平記では「今生の対面遂に叶わずして」となっていたり、ワキの山伏も最初から登場しなかったりで、両者を読み比べてみるとなかなか興味深い。

ついでに吉川英治の「私本太平記」を読んでみた。ここでは山伏のかわりに足利高氏の身内の右馬介を登場させている。処刑された俊基の遺言として、俊基の死を資朝に伝えるよう高氏から内命を受けた右馬介は具足師柳斉になりすまして佐渡に渡る。本間家に取り入った柳斉はやがて阿新丸と知り合いこれを助け京都まで連れ戻るという展開になっている。阿新丸はここでも父に対面出来ないのであるが、処刑直後鎌倉から赦免状が届くなどの意外性も織り込まれており興味はつきない。

大膳神社   佐渡真野町阿仏房 (平9・5記)

大膳神社は御食津大神を主神とし、日野資朝卿、大膳坊賢栄を合祀する神社である。「檀風」ゆかりの神社であるが、境内の碑には次のように記されている。

「 正中の変の折日野資朝卿当国に配流され、一子阿新丸は父子対面を求めてはるばる都から下向したにもかかわらず、ついに許されぬまま父刑死の無念をはらすべく城主本間山城守の舘に潜入しその弟三郎を斬って本懐を果たした。その間大膳坊賢栄は真の敵は鎌倉なりと阿新丸をさとしたが、その孝心のやみがたきに感動してこれを助け、さらに迫りくる追手窮追の中に阿新丸を守護し、無事虎口を脱して帰京せしめた。
山城守は激怒して大膳坊を処刑したが、その後大いに悔いおそれて日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。 」
境内には茅葺きの屋根と木組みのバランスが良い能舞台がある。舞台はいつも開けられていて鏡板の松の緑が印象的である。この舞台で「檀風」の曲でも謡ってみたくなる雰囲気を醸し出している。

大膳神社 大膳神社 (平7.6)

大膳神社能舞台 大膳神社能楽堂 (平7.6)

妙宣寺、阿新(くまわか)丸隠れ松、檀風城址  真野町竹田 (平9・5記)

妙宣寺はもと順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛(日得上人)の開基といわれる。為盛は上皇崩御ののち、妻千日尼とともに日蓮に帰依したといわれ、日蓮配流の時、日得は妻とともに深夜ひそかに食物を送ってその危難を救ったという。
山門を入って左手の五重塔は新潟県下唯一のもので、相川町の大工茂三右衛門が日光の五重塔を模して建てたといわれ、国の文化財に指定されている。
妙宣寺の広い庭に、夏には白い花ばかりを咲かせるスイレンの池があり、その池の近くに日野資朝の墓がある。後醍醐天皇の正中2年(1325)、後醍醐天皇が政権回復に失敗した事件に連座した日野中納言資朝は、鎌倉幕府によって佐渡に流され、檀風城(雑太城)に幽閉されること7年、元弘2年(1332)6月2日、斬罪に処せられた。遺骨は高野山に納められたというが、その所在もわからず、佐渡ではこの寺の僧が遺骨をもらいうけてこの寺に埋めたと伝えられている。資朝の墓は枯れ木によりかかってわびしそうである。

妙宣寺 妙宣寺 (平7.6)

寺では毎年旧暦6月2日(太陽暦に直した7月3日)の命日、日野資朝の供養祭を執行し、午後、本堂内で能楽を奉じているという。
墓のかたわらには、資朝の歌
     秋たけし檀の梢吹く風に 雑田の里は紅葉しにけり
と刻んだ石碑が建っている。日野家代参を務めた故山本修之助の筆によるものである。

資朝墓2 日野資朝の墓(平8.11)

資朝墓1 日野資朝の墓(平7.6)

資朝歌碑 日野資朝歌碑(平7.6)

資朝が幽閉されていた雑太城は資朝のこの歌によって「檀風城」の美称がつけられたという。寺の境内には雑太城跡と書かれた石碑や札があり、土塁や空堀の一部が見られる。
なお、檀風城趾の碑と刻まれた碑がこの寺の近くの大きな道路の傍らに立っている。高く積み上げられたU字溝の前とあってなんの風情もないが、説明によるとここが佐渡守護代本間氏の初期の居舘跡で、日野資朝を預かった本間山城入道はこの舘にいたという。
寺の近くには阿新(くまわか)丸隠れ松がある。父を尋ねてはるばる佐渡に渡った日野資朝の子阿新丸(当時13歳)は父にも逢わせず父を斬った城主本間山城入道の無情を恨んで、城内に忍び入り、山城を刺そうとしたが、その夜はそこにはおらず、太刀取本間三郎を刺し竹を伝って濠を越えしばらくこの松に隠れて追手を逃れたという。

雑太城址 雑太城址碑 (平8.11)

阿新丸隠れ松 阿新丸隠れ松 (平7.6)

檀風城址の碑 檀風城趾の碑 (平8.11)

野浦の海岸、お腰掛けの石 佐渡両津市野浦 (平9・5)

ワキの山伏阿闍梨が法力をもって船を呼び戻し船に乗った場所は東海岸の野浦といわれる。野浦の海岸にはお腰掛けの石というのが現存し説明もあるが、阿闍梨の名は大善坊となっている。概要は次のとおり。
「 大善坊法印が阿新丸を助け、ここから敦賀行きの船に便乗させ無事京都に送りかえした。その後、大善坊はきびしい役人の詮議を逃れて野浦に長く滞在し、この大石に腰掛けては都の空を伏し拝んだという。 」

野浦海岸 野浦海岸 (平7.6)

腰かけ石 腰掛石(大膳坊邸跡)(平7.6)

水俣観音堂  新潟県糸魚川市水俣 (平9・5記)

佐渡で本間を討った阿新丸は野浦海岸から乗船して対岸の親不知に着く。阿新丸は父の遺骨をこの水俣観音堂の境内に葬り、そこに資朝の墓があるというので訪ねてみたが、墓を見つけることは出来なかった。

水俣観音堂 水俣観音堂 (平6.10)

佐渡歴史伝説舘 佐渡真野町真野 (平9・5記)

真野御陵に隣接する「佐渡歴史伝説舘」は、佐渡の歴史や伝説を、十体の等身大のハイテクロボットによって、言葉でなく実際の情景としてリアルに体験できる。
「歴史コーナー」には「順徳天皇・配所の月」「日連・塚原問答」「日蓮・佐渡の法難」「世阿弥・雨乞の舞」等謡曲にも関係深い場面が陳列されており私たちにも興味深い。
また、「伝説コーナー」には「語りべの老婆」が佐渡の伝説「安寿、厨子王伝説」「夕鶴伝説」「おけさ伝説」を語ってくれるが、ここでは阿新丸関係の写真のみを掲げる。

阿新丸竹越え 竹の反動を利用して飛び越える阿新丸(平7.6)

阿新丸の絵 阿新丸の絵 (平7.6)


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