拝殿と立砂

謡蹟めぐり  加茂 かも

ストーリー

播州室の明神に仕える神職が、室の明神と一体であるという加茂社に参詣します。すると、その川辺に新しい祭壇が築かれ、白木綿に白羽の矢が立ててあるので、神職はちょうど水汲みに現れた里女にそのいわれを問います。
女は、昔この里に住んでいた秦の氏女がこの川で水を汲んでいた時、流れて来た白羽の矢が水桶に止まったのを拾ったことから懐妊し、男子を産んだことや、この子と母、そして白羽の矢で示された別雷の神を加茂三所の神ということなど、加茂三社の縁起を語ります。そして水を汲みながら川に因んだ歌を引き、その流れの趣を語り、やがて自分が神であることをほのめかして消え失せます。
しばらくすると御祖神が天女の姿で現れて舞を舞い、続いて別雷の神が出現して五穀成就、国土守護を説いて神徳を示した後、御祖神は、糺の森へ、別雷の神は虚空へと帰ります。(「宝生の能」平成13年6月号より)

下鴨神社(賀茂御祖神社)、糺の森、上賀茂神社(賀茂別雷神社)(平成7.7記)

賀茂明神、糺の森に関係ある謡曲

この二つの神社は賀茂明神と一括されているが、賀茂川の上流にある上社と下流にある下社に分かれ、約二キロの距離がある。本曲の舞台であることはもちろんであるが、下社の境内、糺の森も含めて、数々の曲に登場しており、私たちにとっては大切な謡蹟である。
「葵 上」・・葵祭の砌に物見車の争いで御息所は葵上を怨むこととなる。葵祭の行列は御所を出発、下鴨神社、上賀茂神社まで巡幸する。
「班 女」・・花子は糺の森で吉田少将に再会する。
「生田敦盛」・・黒谷の法然上人が賀茂の社に参詣の帰途、二歳の男の捨児を拾いあげるところから物語は始まる。
「加茂物狂」・・別れた男女が糺の森で再会する。
「鉄 輪」・・シテの妻が夫に対する恨みを酬いるため、貴船の明神に丑の時詣でをするが、その途中この糺の森を通っている。

<追記 謡曲史跡保存会の駒札 平13.11記>

下鴨神社境内にある「下鴨神社と糺の森」の駒札には次のように記されている。
「 下鴨神社は「風土記」や「日本書紀」に見える八咫烏・金鵄として建国に貢献された賀茂建角身命及びその御子の玉依媛命との二柱を祀り、正式には賀茂御祖神社と申す。多くの社殿が国宝・重要文化財に指定され、境内「糺の森」は三〜四千年前の山背原野の埴生が現存し、その林泉と幽邃の美は数々の物語・日記類・詩歌管弦にうたわれている。従って「賀茂・水無月祓・班女・白楽天・正尊・是我意・代主・生田敦盛・加茂物狂・室君・夕顔・定家・鉄輪」など数多くの謡曲に謡われて来たところである。 」

賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の名前の 由来

謡曲の曲名は「加茂」である。神社の名も簡単に下加茂神社、上加茂神社と呼べばよさそうに思うが、下鴨神社、上賀茂神社と加茂の字を書き分けている。
カモ川も源流は雲ガ畑川と呼ばれ、やがて賀茂川となる。これが下鴨の南で高野川と合流し、名称が鴨川と変わる。さらに下鳥羽で桂川に注ぐ。上賀茂神社は賀茂川の近くにあり、下鴨神社は鴨川の近くにあるからこのような書き方になるのだろうか。
しかし、下鴨神社を賀茂御祖神社といい、上賀茂神社を賀茂別雷神社というのは、この曲の物語によって理解できる。
秦(はだ)の氏女(うぢにょ)が御手洗川の川辺で水を汲み神に手向けていると、川上より白羽の矢が流れきたり水桶にとまる。これを取って帰り庵の軒にさすと、懐胎して男子を産んだ。この男子が別雷神(わけいかづちのかみ)であり、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神となる。
別雷神を産んだ秦の氏女すなわち玉依媛命(たまよりひめのみこと)は別雷神の御祖(みおや)であるから、媛を祀る下鴨神社は賀茂御祖(みおや)神社と呼ばれるのである。
この曲に語られる神婚伝説は古くからこの地に大勢力をもっていた賀茂(鴨)氏一族と、今一つの豪族である帰化人系の秦氏との協力連繋を示すものとする見方もある。

賀茂御祖神社(下鴨神社)の由緒抜粋

「 祭神は玉依媛命(たまよりひめのみこと)と、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)である。御祭神は、日本の黎明期において、早くから京都地方を開拓し農耕殖産の道を教え、さらに正邪を糺して裁判の基を開かれた。かの神武天皇の御東遷に際しては、金鵄(きんし)・八咫烏(やたがらす)としてその霊徳を現わされ、建国創業をたすけ、民生の安定に貢献されたことは、古典や伝承の示すところである。玉依媛命は、賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)の祭神「別雷神(わけいかづちのかみ)」の御母神であり、婦道に御功績が多かった。
かくて当神社に対する信仰は往古から甚だ根強いものがあり、特に王朝時代に隆盛を極めて今日に至っている。千数百年の伝統を誇る葵祭は、勅祭として今もなお昔ながらに継続斎行されている。(中略)
また観光面においても、王朝の昔を偲ぶ十二単衣の着付と王朝女人の雅楽舞、舞楽等があり、毎日、京都市観光バスのK・Nコースによって好評を博している。 」

下鴨神社 下鴨神社(賀茂御祖神社) 京都市左京区 (平 6.4) 祭神は玉依媛命(たまよりひめのみこと)、本曲の秦の氏女、別雷神の母である。その故に御祖神社の名称がある。

糺の森 糺の森 下鴨神社の境内 (平 6.4) 本曲はじめ数々の曲の舞台となっている。

平安貴族の舞 平安貴族の舞 下鴨神社 京都市左京区 (平 3.4) 十二単衣をまとった優雅な平安時代さながらの舞を観光バスで今でも楽しめる。

上賀茂神社(賀茂別雷神社)の由緒抜粋

「 御祭神 賀茂別雷大神
神代の昔、本社の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の本殿に御鎮座になった。御鎮座以来広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣、御祈願があった。
嵯峨天皇は皇女有智子内親王を斎院と定め、天皇の御杖代として御奉仕なさしめ給い、以来35代、約400年続いた。「延喜式」では名神大社に列し、のち一ノ宮として尊崇せられた。また摂関賀茂詣、武家社参相次ぎ、特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に関係があるところから、特別の信心を寄せた。明治以後終戦まで、官幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。 」

上賀茂神社 上賀茂神社(賀茂別雷神社) 京都市北区 (平 6.4) 本曲の舞台。境内を御手洗川や奈良の小川が流れる。

上賀茂神社本殿の北北西約二キロメートルに、あたかも鉢をふせたような秀麗なお山がある。この神山こそ賀茂信仰の原点ともいうべき霊峰、御祭神が天降られた所で太古はこの山を神体として祀り、後にこれを遥拝する所として上賀茂神社が造営されたという。
上賀茂神社の二ノ鳥居を入ると拝殿の前に美しく白砂を積んだ円錐型の立砂がある。これは御神体である神山をかたちどったものとのことである。

神山 神山(こうやま) 上賀茂神社境内 (平 6.4) 御神体の山、これを遥拝する所として上賀茂神社境内が造営されたという。

拝殿と立砂 拝殿と立砂 上賀茂神社境内 (平 6.4) この砂は御神体である神山をかたどったものといわれる。

本曲舞台の川を求めて

曲中に「御手洗や清き心にすむ水の」「秋程もなき御秡川」「石川や瀬見の小川の清ければ」等、川の名前がいろいろとか出てくるが、秦の氏女が壇を築き、白羽の矢を立てた川辺とはどの川なのか、謡蹟関係の本をみてもはっきりしなかった。
昨年上賀茂神社に参詣し、京都謡曲史跡保存会の次のような立て札を見つけた時は嬉しかった。

「 上賀茂神社  ・・・玉依姫が今、上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(瀬見の小川禊の泉)で川遊びをしていると、川上から白羽の矢一本が流れてきた。これを持ち帰って床に挿して置いたところ、遂に感じて男子を生む。のち男児天にむかって祭をなし屋根を穿って天に昇る。別雷とたたえ、祀る神社を賀茂別雷神社という。・・ 」

これで私の探した川の名は御手洗川であることがはっきりした。しかし境内は広く神社でいただいた由緒書の境内略図にも「御物忌川」と「奈良の小川」の名は出ているが「御手洗川」の名は出ていない。社務所で若い女性に聞いたが要領を得ない。仕方なく立ち去ると後から年配の方が追いかけてきて、わざわざ「境内を流れる川の話」というパンフレットをくださって、御手洗川の所在を教えてくださった。
ようやくみつけた御手洗川。この川で秦の氏女が白羽の矢と出会ったのである。
この川を少し下ると御物忌(おものい)川と合流し、奈良の小川(曲中の御秡川がこれにあたるともいう)となる。小倉百人一首で有名な従二位宮内卿藤原家隆の
    風そよぐ奈良の小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける
はこの川を詠じたものといわれる。

一方、下鴨神社の糺の森にも多くの川がある。賀茂御祖神社境内図なる立札に記載されているだけでも、瀬見の小川、奈良の小川、泉川があり、さらに御手洗川もあるという人もおり、瀬見の小川は賀茂川の異名だとする説もある。
曲中に引用されている
    石川や瀬見の小川の清ければ  月も流れを尋ねてぞ澄む
は鴨長明の歌である。石川も賀茂川の異名という。
糺の森の小川の写真を撮ってきたが、川の名前は定かではない。

神賀茂神社境内案内図 上賀茂神社(賀茂別雷神社)境内案内図 (平 6.4)

下鴨神社境内図 下鴨神社(賀茂御祖神社)境内図 (平6.4)

御手洗川 御手洗川 上賀茂神社境内 (平 6.4)  この川辺で秦の氏女は白羽の矢を拾う。

奈良の小川 奈良の小川 上賀茂神社境内 (平 6.4) 上左が御手洗川、上右が御物忌川、合流して奈良の小川となる。

瀬見の小川 糺の森(下鴨神社)の中を流れる小川 下鴨神社 京都市左京区 (平 6.4)こちらにも奈良の小川や御手洗川がある模様。

< 追記 下鴨神社の川と伝承 平成13.12記 >
長男が糺の森の川向こうに住んでいるので、京都へ行くと下鴨神社や糺の森には何回となく出かけている。本年7月も参詣したが、その折神社社務所発行の「賀茂御祖神社略史」なる小冊子を入手した。
そこに記載されている境内図には瀬見の小川の上流が御手洗川とはっきり書かれてある。前に紹介した境内の立て札に、奈良の小川と書いてある所にこの資料には御手洗川と書かれている。ということは、下鴨神社にも上賀茂神社と同じように御手洗川があるということである。しかも御祭神神話伝承として「玉依媛命 丹塗の矢」が紹介されている。
「続日本紀」に「山城国 賀茂社」として、
「 玉依姫が石川の瀬見の小川で遊んでいると川上から丹塗りの矢が流れてきた。これを取って床に挿しておくと孕んで男子を生んだ。大きくなった時、酒を酌み交わしているとき、汝の父と思う人にこの酒を飲ませよというと、杯を挙げて天に向かって祭ろうといい屋根の甍を破って天に昇った。 」
と、ほぼ本曲と同じようなことが記されている。
つまり上賀茂神社にも下鴨神社にも同じような川が流れ、同じような伝承があるようである。
境内には前述した鴨長明ゆかりの河合神社もあるのでその写真も掲げておく。鴨長明は「方丈記」の著者として知られるが、神社の一隅に彼が栖(すみか)とした鴨長明方丈がある。

下鴨神社境内図 下鴨神社境内図 (平13.7)

瀬見の小川 瀬見の小川 下鴨神社 (平13.7) 参道に沿って流れる

河合神社 河合神社 下鴨神社境内 (平13.7) 鴨長明が住んでいたところ


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