浄見原神社1

謡蹟めぐり  国栖 くず

ストーリー

清見原(天武)天皇は伯父大伴皇子の襲撃から危く逃れ、吉野山に分け入ります。
一方、吉野川を舟で下る老夫婦が、我家の上に客星が出、紫雲がたな引くのを見てただならぬ様子と家に帰ります。すると、そこには紛れもない天皇のお姿があります。子細を聞いた老夫婦は天皇を家にかくまい、新鮮な根芹と鮎とでもてなし、天皇もこの志を嘉納されます。また天皇の残された魚で老人が占うと、吉兆が現れ、天皇を慰め申し上げます。そこへ追っ手がかかります。老人は川岸の舟に天皇を隠し、言葉たくみに追っ手をかわして追い返します。
夜も更け、老夫婦が姿を消すと美しい音楽が響き、天女が現れ舞を舞います。これにひかれて、吉野の神々も来臨し、蔵王権現も現れて、天武の御代の将来を祝福します。天皇の危急を救った老夫婦はこの神々なのでした。(「宝生の能」平成13年2月号より)

浄見原神社参詣         (平1・5記)

本年5月11日から2泊3日で実施された教授嘱託会の「謡曲名所めぐり大和路の旅」では、かなり山奥にある本曲ゆかりの地、吉野町国栖もコースに入っており、「浄見原神社」を参詣する機会を得た。
本曲の背景となっている、いわゆる「壬申の乱」では、今から1300年ほど昔、天智天皇のあとを継ぐ問題がこじれて、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子(弘文天皇)と対立したが、戦いは約1ケ月で終り、大海人皇子が勝って天武天皇となった。
土地の人の話では、この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人達は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また酒や腹赤魚を供し、歌舞を奏してお慰めしたとのことである。
神社は吉野川の断崖に岩窟を利用して建てられた簡素な社で足の便が悪く、正面から拝むことはできなかった。ただ、神社の前を流れる吉野川は、かなり川幅も広くなっており、水も清く鮎などもとれそうな川である。この辺が本曲の舞台となったのであろうが、今でも伏屋に紫雲がたなびき老翁と姥が出てきても不思議でないような雰囲気である。
ここから吉野川に沿って下り、左手に折れると「嵐山」「吉野靜」「忠信」などゆかりの「吉野山」も近く、「勝手神社」「子守神社」「蔵王堂」などにも参詣できた。旅行から帰って大和王朝の頃の歴史を読みなおしているこの頃である。

浄見原神社1

浄見原神社2 浄見原神社 奈良県吉野町国栖(平1.5)吉野川の断崖に建てられた簡素な神社

吉野川 吉野川 奈良県吉野町国栖 (平1.5)神社の前を流れる、老人はここでとった鮎でもてなす

壬申の乱について   (平7・9記)

この曲の背景となっている壬申の乱についての予備知識があると、この曲が一層興味深いものになると思われる。さまざまの文献があると思うが、ここでは小和田哲男著「日本の歴史がわかる本」を抜粋して紹介することとする。学校で習った万葉集の歌が出てきたり、謡曲「三山」に関連した歌もあって興味を覚えたからである。

「 天智天皇の決断 − わが子・大友皇子か、弟・大海人皇子か
大海人皇子(おおあまのみこ)は父が舒明天皇、母が皇極天皇(斉明)で、中大兄皇子、すなわち天智天皇と、父も母も同じの弟であった。死後のおくり名が天武天皇である。生年がはっきりしないので何ともいえないが、中大兄よりは五つほど下だったらしい。したがって、中大兄が蘇我入鹿を討ったクーデターには関係していなかったが、その後の改新政治の展開過程では兄のよき協力者だったという。
当時、皇位は親から子が受け継ぐというわけではなかったため、血筋からいっても申し分のない大海人は、中大兄の次の皇位候補者として周りからみられていたらしい。大海人本人もそのつもりでいたようである。
ところが、兄の中大兄、すなわち天智天皇は、晩年、皇位を弟の大海人ではなく、わが子大友皇子に譲りたいと考えるようになった。あれだけ、皇位に執着せず、皇太子のまま政治を実際に動かしてきた中大兄に、いかなる心境の変化があったのか、いまとなってはわからないが、確かに、それまでの中大兄の生き方からすれば理解しがたいことといわざるをえない。
しかも、大友皇子の母というのが、伊賀国から召し上げた采女であった。王族でもなく、また、蘇我氏や阿部・紀氏といった有力豪族の出身でない娘の産んだ皇子を天皇の位につけるというのは、かなり強引なルール破りであった。

額田王をめぐる中大兄と大海人の確執

この二人にはもう一つ、複雑な女性関係があった。女流万葉歌人として、あまりにも有名な額田王(ぬかたのおおきみ)である。
額田王は、はじめ大海人と結婚し、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んでいる。しかし、そのころから中大兄も額田王に好意を抱いていたらしく、ついには召しだして自分の妻にしてしまった。ふつうならばそこで終わるのだが、仲を裂かれた形の大海人と額田王が、その後も相思相愛の仲だったというのだから始末が悪い。いわば、この恋のさやあてが、のちの壬申の乱の原因だとする解釈が以前からなされてきた。
たとえば、「万葉集」巻一に、「中大兄 近江宮に天の下治めたまふ天皇の三山の歌一首」として、
  香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし
  いにしへも しかあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき
という歌が収められている。この歌の大意は、「女山である畝火山を、男山である香具山と耳梨山が争ったように、いまの世も、一人の女を二人の男が争うことがあるらしい」というもので、女が額田王、男二人というのが中大兄と大海人を暗示するという。
また「万葉集」の同じ巻一にもっと刺激的な歌もある。まず額田王が、
   あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守はみずや 君が袖振る
と詠んでいる。これは、668年5月に近江の蒲生野で行われた朝廷の行事でもある薬猟のとき、大海人が額田王に袖を振っているのをみて、「野守が気づいたらどうします」とたしなめている内容の歌である。
これに対し、大海人は、
   むささきの 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも
と返歌を詠んでいる。これは大海人が、「人妻」となった額田王に対する思いをまだ断ち切れていなかった証拠だというのである。
大海人が額田王に対して未練をもっていたのは事実だったと思われる。しかし、そうした三角関係が壬申の乱の原因だったと考えてよいものだろうか。次に、もう少し具体的な経過をみるなかで結論を導き出すことにしよう。

<追記 平14・2記>  万葉の森船岡山 蒲生野狩猟の美術陶板
平成13年11月、滋賀県の湖東三山を訪ねたおり、八日市市の万葉の森船岡山に上述の万葉の歌をテーマにした蒲生野狩猟の陶板を見る機会があったので紹介する。
陶板は写真のような美しく大きなものであり、説明板には次のように記されている。
「    万葉の森船岡山 ようこそ万葉ロマンの舞台・・蒲生野へ
はるか万葉の昔、このあたりを中心とする蒲生野は広大な緑の野原が広がり、貴族たちが狩猟をし、薬草を摘む場所でした。当時朝廷があった大津京から天智天皇の一行も蒲生野へ出かけました。この??の時に額田王と大海人皇子(後の天武天皇)の間で交わされた恋歌は、万葉集を代表する歌として有名です。かって額田王は大海人皇子と恋仲でしたが、後に皇子の兄である天智天皇の寵愛をうけるようになりました。二人はこの蒲生野狩猟の時、複雑な事情の中で互いの恋心を美しく歌に表しています。
   あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守はみずや 君が袖振る
                               (額田王)
   むささきの 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも
                               (大海人皇子) 」
この美術陶板はその狩猟の姿を想像して描かれたものと記されており、ここにはこの陶板のほかにも万葉歌碑や万葉植物園があり、古代を偲ぶ恰好の場所となっている。

蒲生野公園 万葉の森船岡山 滋賀県八日市市 (平13.11) 整備された公園の一角に陶板は建っている

万葉陶板 蒲生野狩猟の美術陶板 万葉の森船岡山 (平13.11)

大海人皇子、吉野へ姿を消す!

大友皇子が太政大臣に任ぜられ、大海人皇子が危機感を抱いたその同じ671年の10月17日のことである。大海人は病床の天智から呼ばれた。よびだしの使者として大海人のもとを訪ねた蘇我安麻呂は、ある程度の事情を察知していたらしく、また、大海人に好意を寄せていたのであろう。「言葉は慎重に」と、何やら謎めいた言葉を残していった。
事情がよくのみこめないまま天智の枕元に行くと、「皇位をそなたに譲りたい」というのである。ここで大海人は、「言葉は慎重に」といった蘇我安麻呂の言葉の真意が理解できた。そこで、「かしこまりました」とか、「喜んでおうけします」とでもいおうものなら、隣室に隠れている刺客によってたちどころに殺されてしまったであろう。天智としては、わが子大友皇子に皇位を譲りたいがために、仮に大海人に皇位につく意思があるとみれば、それは抹殺しておかなければ安心できなかったからである。
大海人は、「この場は何とかとりつくろって逃げ出さなければならない」と考えた。そこで、天智の申し出を辞退したばかりか、天智の大后である倭姫王に皇位を譲ることを進言し、大友皇子を皇太子にすることを勧め、みずからは出家して仏道修行に入ることを申し出たのである。
それだけではまだ心配だったとみえて、自分の屋敷に戻ると即座に武器を集めさせ、すべて官庫に納めさせたという。謀反の疑いがかけられることを極度に警戒したためである。そうしたうえで、妻のウノノサララノ皇女(天智の娘、のちの持統天皇)、草壁、忍壁両皇子とわずかの舎人(とねり)を伴っただけで吉野へ姿を消してしまった。大海人にしてみれば、天智の暗殺の手からかろうじて脱出できたということになる。

672年、壬申の乱勃発 ー 大海人による律令体制へ

大海人が吉野に去った直後、すなわちその年の12月3日、天智は死んだ。当然、近江の朝廷は天智の子大友皇子が継ぐことになる。各種年表には、大友皇子が即位して弘文天皇になったと記してあるが、詳細にみると、ことはそう単純ではなかった。「日本書紀」には即位したということが書かれていないのである。つまり、皇太子のまま「称制」の形で大海人に討たれた可能性の方が強い。弘文天皇という名が明治3年(1870)に追諡(ついし)されたものだという事実は、この際注目されてよい。
さて、吉野に姿を消したあとの大海人であるが、翌672年6月、いよいよ行動をおこす。機が熟して挙兵に踏み切ったというより、追いつめられた形で挙兵したといった印象が強い。吉野から伊賀を通って伊勢に出、そこで、東海、東山道諸国に動員の命令を発している。
いっぽう、大海人の挙兵を知った大友も、畿内諸国、さらに山陽・山陰・南海道諸国に動員を命じた。大海人の東軍に対し、大友の西軍というのが壬申の乱の構図で、それがちょうど、のちの関ヶ原の戦いのときとほぼ同じ場所で激突しているというのもおもしろい。
結局、7月に入って両軍が激突し、7月22日、大友側の最後の防衛線だった瀬田橋が破られ、大友軍は敗走し、翌23日、大友は自殺し、大海人側の大勝利で終わった。
そしてこのあと、大海人は飛鳥に新しい宮を造営した。それが飛鳥浄御原宮である。大海人はそこで翌673年2月即位し、新しい施策を次々に打ち出していった。 」

白髯神社  長野県鬼無里村      (平7・9記)

「紅葉狩」の古蹟のある長野県鬼無里村に、大海人皇子すなわち後の天武天皇に関する伝説がある。天武天皇は白鳳年間にこの地への遷都を計画され、当社をその鬼門の守護神として勧請されたと伝える。
天武天皇が実際に遷都した藤原京が大和三山のまん中にあるように、戸隠、新倉、虫倉の三山に囲まれた谷あいの水無瀬(みなせ)の里は、水がきれいで、地形の占いでも都を造営するにふさわしい土地だというので、天皇に検分した地図をたてまつったという。ところが、ここに住んでいた鬼どもは、これに反対し一夜のうちに山を運んできて谷のまん中にすえ、用地を塞いでしまった。
遷都の計画を阻止された天武天皇はこの鬼どもを討つために、蝦夷征伐の名将阿倍比羅夫を信濃の国に派遣する。そして鬼どもが退治されると、この故事によって水無瀬の里は「鬼無里」と呼ばれるようになり、一夜のうちに鬼が運んだ山を「一夜山」と名づけたという。

白髯神社 白髯神社 長野県鬼無里村 (平6.10) 天武天皇はこの地に遷都を計画したという


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