朝長自刃の図

謡蹟めぐり  朝長 ともなが

ストーリー

朝長に縁の深い僧が、平治の乱に敗れて都を落ち自害した朝長を弔うために美濃の国青墓に赴きます。僧が墓所を訪ねて懇ろに回向をしていると、中年の女が詣で来て、僧の姿を見て不審をいだきます。「この墓所へは自分の外には参る人はないのに、涙を流して懇ろに弔いなさるはいかなり人か」と朝長との因縁を尋ね、かつ女も朝長に一夜の御宿をした縁で、同様に弔いをする宿の長であると告げます。
女は僧の所望によって、落ちのびて来たその夜の義朝親子の様子から、朝長の最後の有様などを詳しく物語っているうちに、いつか夕陽も落ちて来たので、僧を自分の家に伴います。
僧が、観音懴法(せんぼう)の法要を勤めていると、夜半に朝長の亡霊が昔の姿で現れ、都での敗戦の様子や、一門が不運をたどる中で、青墓の宿の長の深い情が死後の弔いにまでも及んでいる嬉しさを語り、遂に消え失せるのでした。(『宝生の能」平成13年3月号より)

円興寺と朝長の墓  大垣市青墓町  (平5・9記)

平成4年5月、教授嘱託会の謡曲名所めぐり、遠江から美濃路への旅に参加、円興寺を訪ねた。その際この部分の旅行記を書くように言われ提出したのが、教授嘱託会の会報に掲載されたので、再録してみる。

『 「赤坂」の町並みを出て少し走ると今度は「青墓」である。この地名は謡曲「熊坂」にも出てくるが、それよりも「朝長」の舞台、朝長が自刃した所として私どもには無関心でいられない所である。
朝長は平治の乱で平氏に敗れ、父義朝、嫡子義平、弟頼朝、鎌田政家らとわずか8騎で東国へ逃れようとした途中、吹雪のため頼朝は遅れ行方不明となり、残り7騎散々の体で漸く青墓の大炊長者(義朝の妾延寿の実家)の家に辿りついたのは平治元年の暮、27日のことであった。
休む暇もなく義平は飛騨路へ、朝長は東国へ下って再挙を図ることにしたが、朝長は都落ちの途次龍華越で比叡山の衆徒と戦ったおり、左太腿に矢疵を負い、これが悪化してこれからの長途の旅が覚束なく、万一敵の手に落ち、名門源氏の御曹司の名を汚すことを恐れ、父義朝の介錯により自刃した(円興寺所伝による)。
よって朝長の遺体を円興寺の境内に葬った。当時円興寺は、現在朝長の墓のある円興寺山上に在り、七堂伽藍、塔頭36院、末寺125の大古刹であったという。信長時代に戦火により焼失し、その後円興寺山の谷間の現在地に再建され、朝長の菩提寺となっている。
当寺の本尊は俗に石上観音と称せられる木造聖観音像であるが、信長兵火の際幸いにも谷間の石上に難を避け無事であった。大正3年国宝に指定され、その後国からの補助で造られた鉄筋の建物の中に安置されている。
朝長の墓は円興寺から山道を30分ほど上がった昔このお寺があった場所にある由である。道も悪く時間の都合もあって残念ながら今回の名所めぐりでは割愛されたが、それでも本堂に朝長の位牌があったので、これに礼拝することができた。

今回、私どものため、お寺のおばあさんが詳しく説明してくれたが、その中で私にとって新発見だったのは、朝長が自刃した時はまで16歳の若さだったことである。「朝長」の能もまだ見ておらぬため、大曲「朝長」のシテさんだから相当の年輩と思っていたが、考えてみれば、頼朝とそれほど違いない訳だから若いのは当然である。
謡本をよく見ると、後シテは能の場合「十六」という年若い公達のシテに用いる面(おもて)をつけることになっている。「敦盛」「経政」も同様である。経政の没年ははっきりしないが、敦盛は朝長と同じ16歳で戦死している。面の「十六」という名前も二人の亡くなった時の年齢からきているのであろうか。
本堂への通路の壁に若い朝長の自刃の図が掲げられており、見る人々の涙を誘っていた。このお寺では、今でも朝長が自刃した12月28日になると、毎年鐘を16回ついて朝長の霊を慰めているとのことである。
山深いお寺でおばあさんが一人で管理していたが、一度に90人もの団体客が押しかけ、お茶を出したり、説明したり、本堂に案内したり、国宝の聖観音像を見せるため厳重に鍵のかかった扉を開いてくれたり、多勢の人が差し出す納経帖に記載して朱印を押したり、品物を売ったりでなかなか忙しいことであった。 』

円興寺 円興寺 (平4.5)

朝長自刃の図 朝長自刃の図 円興寺 (平4.5)

法山寺と野間大坊 愛知県美浜町 (平5・9記)

朝長の父義朝はこのあと、知多半島の長田父子を頼って落ちて行ったが、長田父子の謀略にかかって「法山寺」で殺害される。「法山寺」には「源義朝御湯殿旧跡」や「源義朝公の像」がある。

義朝湯殿跡 源義朝公御湯殿旧蹟(平4.5)

義朝公像 源義朝公像 法山寺 (平4.5)

「野間大坊」には「源義朝公御廟」がある。は風呂に入っている時に襲われ、裸身だったので「若し木刀の一本もあればやみやみとは討たれぬものを」と口惜しがったことから、御廟には木刀を象った塔婆が山と積まれ、今に義朝の無念を慰め弔っている。
傍らには忠臣「鎌田政家並びに妻の墓」があり、涙を誘っている。
境内の「血池」は義朝公の首級を洗ったところと云われ、池の中には経文らしいものを書き付けた棒が何本も立っている。

野間大坊 野間大坊 (平4.5)

義朝御廟 源義朝公御廟 野間大坊 (平4.5)

鎌田政家墓 鎌田政家並びに妻の墓 (平4.5)

血の池 血の池 (平4.5)

金王八幡宮  渋谷区渋谷 (平5・9記)

謡曲「朝長」の中に「武具したる人四五人内に入り給ふ。義朝御親子。鎌田金王丸とやらん」とあるが、この義朝の臣金王丸を祀ったのがこの金王八幡宮である。
金王丸は永治元年(1141)渋谷重家の家に生まれる。渋谷家はこの地域の領主であった。金王丸は幼名で、後に出家して土佐坊昌俊となる。「七騎落」で頼朝に従った土佐坊、「正尊」で起請文を読み上げて義経を偽り、夜討をかけた土佐坊はこの人である。境内の「金王桜」は頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして鎌倉亀ケ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものと伝えられる。
戦前、私もこの近くが金王町と呼ばれた頃に一時住んだことがあるが、このような由緒ある八幡宮とは知らなかった。本年5月、等々力渓谷、九品仏を訪ねた帰りに渋谷駅で下車、駅から5分程度で行ける都心のこの謡蹟を訪ね、金王丸、土佐坊の事績を偲んできた。(写真は「正尊」の項に掲げたので省略する。)


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